第10話:風と願いのゆく先

 ──あれから、少女は私に話しかけるようになった。

 

 返事はなくてもいいと、彼女は何度も言った。

 けれど私は、あの時から、黙っていられなくなっていた。

 少女の声が、祈りではなく、誰かと通じ合おうとする言葉に変わった瞬間を、私は確かに聞いてしまったからだ。

 

 夏の終わりが近づく頃、蝉の声が遠のいていく境内に、その姿はあった。

 少女は小さな籠を持っていて、中には手作りの小豆団子が2つ入っていた。

 きっと、母親のために作ったのだろう。

 

「……ねえ、今日は誰かいる? また勝手にしゃべるね」

 

 彼女はそう言って、社の前に腰を下ろすと、そっと団子を1つ、私のほうへ差し出した。

 もちろん、私にそれを取る手はない。だが彼女は、笑って言った。

 

「置いておくだけだから。 ね、よかったら。……ほんとは、お供えとかよくわからないんだけど」

 

 その笑みは、あまりに自然で、優しかった。

 まるで、ずっと昔からここに誰かがいることを知っていたかのように。

 

 私は──ふと思った。

 

 この名もなき少女の祈りは、もはや願いではないのかもしれない、と。

 叶えるかどうかよりも、ただ誰かに気持ちを伝えたい、そういう想いのほうが、ずっと強くなっているように見えた。

 それは、私が長い時のなかで初めて見た祈りの変質だった。

 

 ──そして、その日。

 私は、彼女に名を与えることにした。

 

「……名は、欲しいか?」

 

 風が吹いたあとに、私の声が届く。

 少女はきょとんとして、瞬きを繰り返した。

 

「えっ……?」

 

「私の名だ。 人のように呼ぶには、何かあったほうがよいのだろう」

 

 彼女はしばらく、ぽかんとした顔をして、それからとても嬉しそうに微笑んだ。

 

「……いいの? 本当に?」

 

「……ああ」

 

「じゃあ……教えて。 わたし、ちゃんと呼ぶから」

 

 私は、少しだけ躊躇った。

 名前を教えるということは、境界をまたぐことだ。

 それは、力の根源へ繋がる扉の1つでもある。

 けれど──彼女ならば。

 私は、短く、答えた。

 

「……蒼真。 それが、私の名だ」

 

 少女は、何度もその名を口にしてみた。

 最初は照れくさそうに、けれどすぐに、誰よりも自然に、やわらかくその名を呼んだ。

 

「蒼真さん、だね。 ……ありがとう。 すっごく、綺麗な名前」

 

 その日から、彼女はもう祈ることをしなかった。

 代わりに、話すようになった。誰かと向き合うように。

 

「ねえ、蒼真さんは、ずっとここにいるの?」

 

「……ああ。 ここでみんなを見ているんだ。 外には出られぬ」

 

「そっか……でも、声は届くんだね」

 

「おまえが特別なのかもしれぬ。 ここに祈った者のなかで、声を通したのは初めてだ」

 

「……そっか」

 

 日を追うごとに、少女の声は明るくなっていった。

 そして、言葉の端々に、少しずつ──弱さが滲むようになった。

 

「お母さんね、最近は前より笑ってくれるようになったの。 わたし、ずっと祈ってたから。 きっと、大丈夫だよね」

 

 それから、少女とは何度も、言葉を交わした。

 

 私はただ耳を澄ませることしかできなかったが──それでも、少女の声は確かに、私の内に残っていた。

 ある日は、お母さんの昔話を。

 ある日は、自分の好きな詩の一節を。

 そしてある日は、淡い夢の話を。

 

「元気になったらね、わたし、おかあさんと遠くまで行くの。 風のきれいな山に登って、ふたりでお弁当を食べるの」

 

 夢みたいな、だけどとても素朴な願いだった。

 私は、ふと、思ってしまった。

 もし、この子の想いを叶えたなら──この祈りが、届くのなら。

 きっと、世界は少しだけ、優しくなるのではないかと。

 

 ──それは、ほんのわずかな、揺らぎだった。

 

 気づいた時には、もう私の力は動いていた。

 願いの核心を捉え、穏やかに、静かに──その命を癒やす方向へ、運命をねじ曲げていた。

 

 少女の母は、回復した。

 奇跡のように、何の前触れもなく。

 そして、笑った。少女のそばで、涙を流して、笑っていた。

 その光景は、私の封印の中にまで、熱のように届いていた。

 

 ──それで、終わるはずだったのだ。

 

 だが。

 少女の命は、ある日、突然に途絶えた。

 母の笑顔とともに、穏やかな日々が戻った矢先のことだった。

 道を歩いていた彼女を、予期せぬ事故が襲った──。

 誰のせいでもない、小さな不運が重なっただけの出来事。

 

 けれど、人々は違った。

 祈りが叶えられた代償だと、そう受け取ったのだ。

 

「どうして……! うちの子を……!」

 

 涙をこぼしながら、少女の母が社殿に向かって叫んだ。

 少女に力を貸してくれた存在がいると、彼女は気づいていた。

 それは奇跡だった。疑いようもなく、あたたかな奇跡だった。

 だからこそ、失った現実が、なおさら理不尽に思えたのだ。

 次第に、村の人々も口を開き始めた。

 

 「神さまが……代償として、娘を連れていったんだ」

 

 「願いを叶えた代わりに、命を奪ったんだろう……」

 

 「恐ろしい……もうこの社には祈らないほうがいい……」

 

 誰も、真実を知ってはいなかった。

 けれど、願いが叶えられたあとに命が失われたという、それだけで。

 人々の心にはひとつの因果が、信仰のように刻まれていった。

 

 ──願いは叶う。だがそのぶん、何かを失う。

 

 それは、私が望んだ結末ではなかった。

 少女の笑顔が、ようやく迎えた幸福が、その手の中で壊れていく音を、私は封印の奥から確かに聞いた。

 声に反論することもできず、私はただ、静かにそれを受け入れるしかなかった。

 それが、まぎれもない真実のように、語られてしまったのだから。

 

 ……それ以来、私は誰の願いも受けなくなった。

 

 声に応じることをやめた。

 風の祈りに触れることすら、やめた。

 それが、私にとっての封印だったのだ。

 


 * * *


 

 私は目を伏せた。

 言葉にならない思いが、胸を満たしていく。


「そのとき、気づいたのだ。 どれほど願いに応えても──すべての誰かを、救えるわけじゃない」


「願いは、祈りと違って、何かを代わりに差し出すことを伴う。 だからこそ、いつか誰かに、痛みをもたらす」


 私は、小さく息を呑む。


「それでも、あなたは……応えようとしてたんだね。 ずっと」


「……あのとき、少女は笑っていた。 それでも、私は彼女の願いを、ほんとうに叶えたのだろうかと、今も分からない」


「それが、私にとって……初めての、問いだった」


 奥社を通り抜けた風が、私の髪を揺らす。

 彼の言葉は、どこまでも静かで、どこまでも重かった。

 彼は何も言わなかった。けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。

 

「わたしはね……」

 

 私は短冊を握る。

 

「まだ、言葉にできないけど。 願いって呼ぶには足りない気持ちが、ちゃんと、あるの」

 

 それが、祈りなのかもしれない──そんなふうに、私は思った。

 短冊が静かに折れた。

 それでも、私の中の想いは、形にならなくても、確かに息づいていた。



 ♦︎ ♦︎ ♦︎



 風が、通りすぎていく。

 夕暮れの空に、わずかに残る光が、奥社の柱と、祈る少女の肩を照らしていた。

 

 「……祈り、か」

 

 その言葉を、心のどこかで、何度も反芻する。

 彼女の語った想いは、願いではなかった。

 見返りを求めるものではなく、ただ私という存在に向けられた静かな灯火だった。

 

 長い時を経て、無数の願いを聞いた。

 救いを乞う声、愛を求める声、名声を欲する声。

 欲望、祈願、絶望、執着。

 幾千の声が、私を通して、この地に消えていった。

 

 その中には、確かに優しさのようなものもあった。

 だが、それでも最後には、いつも結果を問われた。

 叶えば崇められ、叶わなければ恨まれる。

 そして、叶えた先にある結末すらも、責められる。

 いつしか私は、声の意味を見失っていった。

 想いの重さが、ただ沈殿していくばかりだった。

 

 ……けれど。

 

 彼女の声だけは、違っていた。

 今、私の中に、ひどく静かに、けれど確かに残っている。

 私を、知ろうとする声。

 私のことを、忘れようとしない声。

 あの少女と出会った日のことが、ふと蘇る。

 まるで風のように、静かで、けれど真っ直ぐに私を見上げた瞳。

 

 ──なぜ、おまえは。

 

 なぜ、おまえだけは、私をまだ誰かでいられるものとして見ているのだろう。


 何かが、揺れている。

 今にも崩れてしまいそうな、かすかな感情が、心の奥底で、微かな灯のようにふるえている。

 

 ──これは、まだ願いではない。

 けれど、たしかに、名もなき祈りだった。

 

 私の中に、まだ、応えたいと願う声が残っているのだとしたら──

 

 それは、きっと。

 

 風が鳴った。

 枝を揺らし、空を撫でるように。

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