第一章 痛みとともにあれ
第1話 崩壊する世界
一年も前の記憶を、どうして今、思い出したのだろう。そう考えて、ふと眼下に何かが見えた。
それは矢の形をしていた。矢の先は私の心臓に、今まさに、突き刺さろうとしていた。
皮膚を守る衣服の一点を中心に放射状のしわを生み出し、そこに穴を開けたら次は、肉を守る皮膚に同じように穴を開ける。
小さな穴が矢尻の形と同じように、膨らんでいき穴から赤い血が漏れ出して、肉を突き破りその先の臓器へ――。
(違う、止まってるんじゃない。ゆっくり動いて見えてるだけだわ。)
早く、体をのけぞらせないと。このまま動かなければその先に待つのは、心臓が矢尻に無理やり押し広げられて、破裂する未来だけだ。
(動いて。動いて……っ。早く――!!)
問題は、この世界が普通通りに動いていたとして、私が矢よりも早く動けるかどうかということ。
いいや、無理だ。
ビュンと矢が唸る音が、聞こえた。止まっていると錯覚するほどにゆっくりだった時の流れが、正常に進み始めたのだと気がつく。
一寸遅れて、その矢が素手で掴んで止められていることを認識し、さらにその後で、まだ自分が生きていることを自覚する。
痛みがやってくるのは、さらにその後だ。
「いっつ……!」
「まなさん、生きてますか!」
「ええ、生きてる、けど」
細腕で矢を掴んだ少女が、黄色の瞳で私の顔を覗き込む。
矢尻を引き抜き、じくじくと痛む胸を思わず手で押さえるが、蓋の開いた水筒みたいに、指の隙間から血が漏れ出していく。
もっと傷が深ければあえて引き抜かない選択肢もあったが、この状況なら抜いて止血したほうがいいと少女は即座に判断したのだろう。
「ままま、まなさんのやわ肌に傷が……! 私の反応が遅かったせいで、すみません……」
「大丈夫よ。このくらい、魔族のあたしなら押さえてれば止まるから。それよりも」
真ん丸な目でこくっと首を傾げたまま、表情筋一つ動かさず掴んだ弓矢をバキッと片手でへし折った少女に、私は目を細める。
「矢を素手で掴んで止めるって、相変わらずどうなってるのよ……本当に人間なの?」
「血が通ってないとはよく言われました」
「そういうことじゃないと思うの」
不意の攻撃を受けて私たちがこうして、くだらない会話に興じていられるのは、もう一人の存在が大きい。
まあ、彼がいなくとも、この少女に限って同じ手が二度通用するはずもないのだが。
「まさかとは思うけど、毒とか塗ってないですよねえ?」
言葉尻に気怠さのある少年は、飛んでくる弓矢を指を振って弾く。否、私の目では追えないだけで、指先に魔力を込めてそこから魔力球を放出――つまりは、銃のように魔力を操り弾いているのだと思われる。
だが、目で追えないのは、少年の魔力だけではない。
「塗ってあるかもしれないって思いながら、怯えてればいいよん」
弓をつがえる女は、カールのかかった腰に届くほどの緑髪を毛先すら動かすことなく、まるで機械のような動きで、矢を射る。
語尾の上がる特徴的な話し方は、聞く者に柔らかい印象を与えそうだが、それに反して赤い瞳は血が凍えるほどに冷え切っている。その瞳が狙うのは、私たち三人の命だけだ。
「へえ……っとと――、危ない危ない。いやあ、実の妹を、わざわざ苦しめて殺すんですか。随分と、変わってしまったんですね、れなさん?」
軽口に興じるのは、余裕がある証左だが、実力差がそこまであるわけではないのだろう。双方とも肩の力を抜いているように見えて、一瞬の隙があれば女がそれを見逃すことはなく、すんでのところで防いだ少年の首筋を汗が流れる。
「あんたにだけは言われたくないねん」
言葉の応酬をする合間に、女が撃つ矢を、男が指でいなしていく。矢の速度はまるで目視できない――いや、そもそも、女が矢を射る瞬間が、見えない。
弓をつがえたと思えば、瞬きの直後にはその矢が少年の指先に到達している。それを、速い、という言葉で表すのは不自然だ。
「時を止めてる間に矢を射るって、かなり厄介ね。別に、初めて見るわけじゃないけれど」
「その上、時が止まっている間は等速直線運動を行い、障害物に当たれば速度はゼロになる。――加速こそしませんが、弓を放った瞬間の一番速い速度のまま到達することになりますからね」
「隙があるとすれば、障害物に当たる直前に時間停止が解かれる、って部分ね。そう考えると――」
矢が到達する直前に時間停止が解かれる。それも、通常の矢より速度を増した状態で、だ。その、ほんのわずかな隙を、針の穴を通すような正確さで、少年は弾いていく。
「実はあかねって、結構すごいことをしてるんじゃない? 不思議と、かっこよく見えてきたわ」
手指一つで致死の攻撃を飄々といなす。一体、どれほどの訓練を積めば、一人の人間があの域に到達できるというのか――。
「まったくの気のせいです」
「あらそう」
目が曇っていただけらしい。彼女が言うのだからきっと気のせいだ。
「いや、僕がまなちゃんにかっこいいって言われたからって、嫉妬しないで!?」
「嫉妬なんてしてません。それに、かっこよく見える気がする、の間違いでは?」
「あたしは、かっこよく見えてきた、って言ったわよ」
「ほらー。見えてきてたんだから、いつかは、かっこよく見えるようになるかもしれなかったじゃん」
「まなさんに幻覚を見せて叩き落とせと? とんだ鬼畜ですね」
「あかね……そういうやつだったのね」
「今さらそういうやつも何もないけど、とりあえず。……僕を盾にしてること、忘れてない!?」
(それにしても、毒の可能性があるって言ってたわね。……まだ、死ぬわけにはいかないのだけれど。)
妙に冷静な自分が、嫌になる。それは、心のどこかで今ならまだ、死んでも構わないと思っているからだ。
「――世界が崩れます」
壁面に文字が刻まれた石作りの塔。その中心にある螺旋階段の一番上にいたはずが、気づけば足場も辺りの景色も、ほろほろと崩れ落ち、崩れ落ちた部分には底の見えない闇が広がっていた。
顔を上げれば、鏡を割ったように空間がひび割れていて、その中に青白い光が見える。亀裂が広がるようにして、世界は少しずつ、崩れていく。
私が傷を負う直前に、三人で壊したこの世界。崩壊した世界の向こうに見える光の中に飛び込めば、この世界からも弓矢からも、逃れられる。
だが、狩人と獲物は拮抗状態。決め手に欠ける中、世界の崩壊だけが進んでいく――。
「あかね、巻き込まれるわよ!」
「ふー……ま、仕方ないね」
逡巡したあかねは、けれど、力の入った全身を、意識的に脱力させて、ひらひらと手を振る。
「あかね、待って――」
桃髪の少女が手を伸ばしかける。その裾を私は反射的に握ってしまい、だからあかねを呼んだ彼女は、手を引っ込めた。
「あ……ごめんなさい、まなさん」
「どうして謝るのよ」
「……私は、私が嫌だと思うことはしたくないんです。けれど、誰かがやらなくてはならないなら、それをまなさんやあかねに押しつけるのは、もっとしたくない。――この先、もっと多くのものを犠牲にしなくてはならない。これは、そういう旅ですから」
覚悟を、決めなくては。
この手を血で汚す覚悟を。不殺も逃避も、甘さも。邪魔なものはすべて捨てて、ただ一つの願いを叶えるために。
けれど、見上げた少女の顔は、心を押し殺しているのだと、ひと目で分かる。たった一年弱の付き合いだが、過ごした時間の濃さだけは、むせ返るほどに濃密だったから。
「大丈夫。そんな顔をしなくてもいいわ。あたしが守ってあげるから」
私よりずっと背の高いその少女は、微笑みかけて頬を撫でてやると、子どもみたいに顔をへにゃっとさせて笑った。
「また、あたしから二人を奪う気!?」
女の声に、思考が呼び戻される。
「ごめん、れなさん。――でも、誰かの幸せを奪う覚悟なら、とっくにできてるんだ」
あかねの手中に黄金の炎が浮かぶ。通常であれば形を持たせることなど不可能に近い燃焼を、剣の形へと変えていく。
「二人は先に行ってて」
「あかね……」
少女は迷い、動けない。薄黄色の瞳に浮かぶのは目の前の金の炎ではなく、別の、もっと遠くにある何かだ。
「ええ、分かったわ。――行くわよ」
「うん……」
世界の亀裂に触れる前、名残惜しそうに振り返る少女が向き直るのを、私は少しだけ、待つ。
そんなとき、視界の端から私の脳天めがけて飛んできた矢を、少女はまたしても容易く握ってその動きを止め、親指で花の命のように軽く、手折る。
その光景がふと、弓矢越しに見える、れなの姿と重なった。
「行かせない……!」
「行かせない、なんて言っても、ねえ。だって」
嫌な予感がした。
咄嗟に少女を引き寄せて、亀裂の向こうの光へと押し込む。続いて自分もくぐろうとして、一瞬、振り返ってしまった。
「――え、ぁ」
「もう死んでるんだよねえ」
肉も骨も断たれて支えられなくなった首が、ぽとりと正面から落ちる。振り向いたから、見てしまった。
ころりと転がって、眼球は、その場所から私を見ていた。炎の剣は傷口を焼いて、ぶくぶくとその表面を焼け爛れさせる。
「ま、な……ちゃ……」
私と同じ、赤い双眸。けれど間もなく絶命したのか、瞳から光が消え失せ、その口がそれ以上の何かを紡ぐことはなかった。
「最期にあたしをそんな風に呼ぶなら、どうして、殺そうとなんてしたのよ」
いつか、彼女から――れなから呼ばれたことのあった愛称。そんなものを遺して逝くのなら。どうしてこの手は今、真っ赤に染まっているというのか。
まだ血が止まる気配のない傷口を押さえて、その死に顔を見つめる。
「どうして、殺したのよ……」
血が流れるのは、まだ生きているからだ。
この胸が痛むのは、そこに穴が空いているからだ。
けれど、今、顔がこんなにも熱くなっているのは、傷が痛いからじゃない。
「どうして……っ。どうして。どうして! どうして、ハイガルを殺したのよ!?」
その顔に問いかける。
当然、返事など来るはずもない。その問いかけの答えは、まだ知らないままだ。
けれどこうして今になるまで聞き出すために生かしておこうなんて、そんな考えは少しも浮かばなかった。
もう終わったことだと、割り切れているつもりだった。つもりだっただけだった。
一つ言葉にしてみたら、閉じ込めていた想いはとめどなく溢れてきて、その激情に身を吸い尽くされそうだった。
けれど、崩壊する世界には、物音一つ残らない。自分の声が響くことさえない。
「……先に行きましょう。あんまり一人にすると後が怖いわ」
そんな静寂に頭が冷えて、冷静さを少しずつ、取り戻していく。先に行かせた少女のことを憂う余裕が出てくるくらいには。
「頭ってさ、ボールみたいだよね」
けれど、あかねは急ぐことなくのんびりと、のんきにそんなことを言った。
「そうね。丸いものね」
できたての死体を目の前にして、こうも普通にしていられる自分が、嫌だった。それも、その死体を作ったのは隣の男、あかねだと言うのに。
「……蹴っちゃう?」
あかねは腰に届くほどのポニーテールを揺らして、軽い調子で尋ねてきた。
「何を言い出すかと思えば」
私はため息混じりにそう答える。
「だよねえ。まなちゃん、真面目だからやらないよねえ」
「やるわけないでしょ。だって、蹴ったら痛いもの」
人の頭は四~五キロ。ボールと違い、簡単に蹴飛ばせるような重さじゃない。
「ハハッ、ハハハッ! ハハハハハ!! そこなんだ??」
だから、私は頭を拾い上げる。まだ生暖かくて、どう見たって死んでいるのに、まるで生きているみたいだった。
それを、地面に叩きつけようと、振りかぶる。
振りかぶって、その先に――いけない。
振り下ろそうとする手が震えて、叩きつけられない。震えるのは、私の腕が細いからでも、重いからでもない。
どうせ、もう死んでいるのだから、痛みなんて感じない。そう頭では理解しているのに。
「――」
考えるのも、何かをするのも苦しくなって、頭だけになってしまったれなを、そっと胸に抱きしめる。
「いやあ、そんなにれなさんのこと恨んでると思わなかったなあ」
――元々、ハイガルのことは海上での事故だと聞かされており、真相は広い海に流されてしまった。
その真犯人が現れたのだから、一回くらい殴ったり蹴ったりするくらい、許されてもいいだろう。けれどそうしたところで、もう死んでしまったのだから、傷が癒えることも、痛みに顔を歪めることもない。
「そりゃ、恨むわよ。事故死したと思ってた相手が、本当は殺されたって言うんだから。蹴りたくもなるでしょう」
「ま、そうだよねえ。……うん、うん。そうだよね。ごめん。分かるなんて簡単に言えないけど、僕も似たようなものだからさ」
分かるなんて言われたら、その先を聞いていないだけだったとしても、私が傷つくかもしれない。だからあかねは、先にごめんと言ったのだろう。
「別にいいわよ。こういう痛さは、何かと比べられるものじゃないもの。でも、すごく痛いっていうのは同じでしょう?」
れなの頭を地面に下ろして、その目を閉じさせてやる。いつからか、死を目の前にしても泣かなくなったのは、強くなったからではない。
(待ってて、れな。――絶対に、正しく罪を償わせてみせるから。)
「てかなに、まなちゃん、そんなにハイガルくんのこと好きなんだ?」
からかうように言うあかねに、私は立ち上がって背を向ける。
――結局、ハイガルから何度告白されても、話せる間に答えてあげることはできなかったけれど。
「さあね、そんなの内緒よ。……ハイガル以外にはね」
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