Crocodilus Umbrae 影の鰐

 モルトマンを書斎に通し、アマハガンの茶を振る舞い、挨拶もそこそこにデリリウムは切り出した。


 「断る。帰れ」


 無駄と知りながら断った。聞かずとも、既に分かっている。モルトマンの要望も、それを受けて重労働を課されることも。


 「さすがはアキテクトゥス殿。話が早くて助かる」

 「相変わらず会話できねーな。あと、その名で呼ぶな。今の俺は、人間のデリリウム・トレメンスだ」

 「これは失礼しました。パングノーシス殿。だけどさ、お互いに理解した上で、要らぬ言葉を割愛しているんじゃないか。余計な修飾は無粋だよ。それに断れないことも、先刻承知だろう?」

 「いきなり来て、施設を貸すわけねーでしょ。研究開発は綿密なスケジュール通りに行われてんの。予約もないでしょ? 準備だってしてないじゃん。それに今、研究所ここは、全館休館中なの! 職員全員、特別休暇中で誰もいないし。無理無理無理」

 「なるほど、ね」


 何が楽しいのか、モルトマンが悦に浸りながら、何度も首肯した。


 「休館の理由は?」

 「それは、なんだ、以前から決まっていて──って、あれ? なんで?」


 改めて考えてみると、休館の理由に思い至らなかった。設備の点検や改修時期とは異なる。祝祭の季節でもない。

 スケジュールのみならず物事の経緯から現在の微細な状態まで把握しているマクスウェルに、デリリウムは視線を向けた。

 しかし、その問いに答えたのは、部外者のはずのモルトマンだった。


 「私が五十年前に予約したからだよ」


 耳を疑った。混乱するデリリウムを他所に、モルトマンが自らの侍従に指図するかのような目配せで、マクスウェルに確認を促す。酷く憎たらしい。


 「仰せの通りです。本日は、転移魔法子衝突型加速器マギレット・コライダーを用いた第二種超魔導物質生成のため、ケルン魔導技術研究機構の全設備は、モルトマン様ただお一人がご利用可能でございます」


 マクスウェルの言葉が理解できず、デリリウムは瞬きを繰り返した。


 「その忘れっぽさ、相変わらずだね。五十年前、初めてを作った時に、他ならぬデリリウム、アンタが予知したから、今日この日を予約したんじゃないか」

 「こちらが五十年前に締結された契約書です。この契約書に基づき、二週間前から全職員に特別休暇が支給されています。なお、こちらが年初と三カ月前、そして今月の役員会議事録ですが、こことここ、あとこちらにも本日の要件について記載がございます。また、デリリウム様の承認印が捺された指示書も、こちらにございます。あわせて、ご確認ください」

 「相変わらずシゴデキだね」

 「恐悦至極にございます。モルトマン様」


 にわかには信じられないことだった。しかし、マクスウェルがどこぞから引っ張り出してきた書類には、モルトマンの言い分を裏付ける記載がそこかしこに並んでいる。何より悪魔マクスウェルの権能を疑う理由がない。何たることか、事実なのだ。


 「職員不在でどうやってマギレット・コライダーを稼働させんだよ?」

 「代替します」

 「ええ? マギレットの加速連鎖は?」

 「第一、第二、第三加速は、賢者イルガリレオ直筆の特級呪符アンセストラル四百九十六枚で代替します」

 「もったいな! そんなことに使うんじゃねーよ。つーか、それでも足んねーじゃん」

 「最終段階となる第四加速、及びエネルギー増幅は、私マクスウェルにお任せくださいませ」

 「加速マギレットの軌道予測と修正は?」

 「アタシが因果律に基づいて、軌道制御するッス」


 元気に挙手するラプラスの眩しさに、デリリウムは思わず右手で両目を覆った。嫌な未来に収束しつつある現実──運命から、目を背けたい気分でいっぱいだ。しかし、運命から逃げれば逃げるほど、散々な結果になるという事態を、演繹的にも帰納的にも知っている。

 四面楚歌だった。侍従すら味方にならない現状に、いかにして抗うか。皆目、見当がつかない。

 そんな時だった。


 「なぁ、ちょっといいか?」


 横合いから、粗野な男の声が割って入った。デリリウムはと言うと、意識の外から捩じ込まれたようで、したたかに面食らったのだった。まごついたまま声のする方を見てみれば、声以上に野蛮な風体の男が一人、モルトマンの傍らに突っ立っている。

 朝に観た未来像ビジョンには居なかった──筈だ。デリリウムに覚えはない。

 デリリウムと同様に、マクスウェルとラプラスも衝撃を受けているようだった。悪魔マクスウェルは過去から現在にかけて、悪魔ラプラスは現在から未来にかけて巨視的にも微視的にも全ての情報を観測し、干渉する権能を持つ。この男は、魔神と悪魔の観測をすり抜けて、今、突然、現れたとでも言うのだろうか。


 「えっと──どちらさま?」


 やっとの思いで、デリリウムは声を絞り出した。素っ頓狂な声に気を良くしたか、モルトマンが愉悦混じりに口を開く。


 「紹介が遅れた。こちらが私を打倒したと巷間に流布されている勇者ジョンだ」

 「ええ?」

 「ジョン・バーレイコーンだ。コイツ、モルトマンが無理ばっか言って、すまねぇな」

 「ジョン。こちらは全知パングノーシスことデリリウム・トレメンス殿だ。この世界に転生する前は、魔神アキテクトゥスとして名を馳せていたお方だから、失礼のないようにね」

 「さっきから失礼なことばっか言ってるお前にだけは言われたくねぇな」

 「私とデリリウム閣下は、の仲だよ。今までのやり取りを見ていなかったの?」

 「見てたから言ってんだ。迷惑がってんだろ。ニタニタ笑ってねぇで、しっかり説明しろよ。サルじゃねんだから」


 ──勇者だから観測できなかった?

 ──魔神の目を欺くなんて、そんなことあるか?

 ──いや、しかし、そんなことより。


 混乱しながらも、一つ分かったことがあった。

 邪智暴虐のモルトマンに、知恵も知識も用いずに反論するジョンの態度に、一縷の望みが見えた。


 「待て待て。ケンカするな。それよりもモルトマン。貴様、勇者と言ったな。自分を倒した相手と一緒にいんのか?」


 うん──と、わらって首肯するモルトマンの声が、ひどく癪に障った。


 「うんじゃねーよ! 何で笑顔なんだよ! あーもー訳わっかんねーなー、もー」


 そしてデリリウムは、モルトマンへの憤りをそのままに、矛先を勇者ジョンに向けた。


 「お前もお前だ。ジョンと言ったか。勇者よ。勇者なんだよな? なんでこんなクズと一緒にいんだ? 不倶戴天ふぐたいてんの敵だろーが!?」

 「河豚ふぐ?」

 「あーもー。お前ら、めんどくせー! 生かしちゃおけねー宿敵だろっつってんの!」

 「宿敵って、そんな大層なもんか? コイツが」

 「そうだよ! 知ってんだろ。コイツ、モルトマンの悪逆非道を!」

 「そんな褒められると照れるなぁ」

 「褒めてねーよ! 表に出てねーだけで、有史以来の虐殺の二割がオメーじゃねーか! なーおい。勇者よ。ジョン。コイツ。モルトマンは、この世界の仇敵だぞ。コイツは。パブリックエネミーだ。そんなコイツのことを、ジョン、お前はどう思う?」


 一息にまくし立てたデリリウムは、ずいとジョンに詰め寄った。熱を帯びたデリリウムとは対照的に、ジョンの目は酷く冷たい。

 ジョンの細い睫線しょうせんの奥で、きろりと瞳が緩慢に動いた。視線の先は、モルトマンだ。

 知らねぇけど──と前置いてから、ジョンが口を開いた。


 「クソうぜぇ」

 「だよなー! なら、なんで──」

 「コイツとは、まだ勝負がついてねぇんだ。きっかり俺の力で殺し切る。そのために今、コイツと俺は旅をしてる」

 「そのために第二種超魔導物質フリクタルが必要なんだな」

 「うむ、その通りだ!」

 「オメーに聞いてねんだよ!」


 ジョンとの会話に割り込むモルトマンに向かって、デリリウムは絶叫した。


 「なんだか、ほんと、色々すまねぇな」

 「気にするな、ジョン。喜んで助力しようじゃないか。勇者よ。さあ、共に巨悪を討とうぞ!」


 魔神アキテクトゥスが勇者ジョンの手助けをすると、自ら決断した瞬間だった。

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