第18話 支えるための白



 山寺からバスで山形市内に戻った彼は、駅前の安価なビジネスホテルに宿を取った。シャワーを浴びて火照った体を冷まし、買ってきた弁当を無心で胃に収める。そして、机に向かい、ノートパソコンを開いた。


 画面のカーソルが、黒い心臓のように点滅している。

 何かを書かなければ。山寺で感じた、あの圧倒的な静寂を、言葉にしなければ。

 だが、指が一本も動かなかった。キーボードに置かれた手は、まるで石のように重い。

 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」――あの十七音の裏にある、途方もない深さと重さを知ってしまった今、自分の紡ぐどんな言葉も、薄っぺらで、空虚なものに思えてならなかった。「彫る」という行為の厳しさが、彼の喉元に突きつけられた刃のように、自由な呼吸さえ奪っていた。

 結局、彼は一行も書くことなくパソコンを閉じ、逃げるようにベッドに潜り込んだ。


 翌朝、重い体を引きずってホテルを出る。空は曇りがちで、空気は湿り気を帯びていた。次の目的地は決めていなかったが、ただ漠然と、日本海側をさらに南下しようと考え、国道113号線へと向かった。


 「新潟方面」と書いたダンボールを掲げ、待つ。

 これまでのように「誰か止まってくれ」と願う気持ちは薄れていた。むしろ、このまま誰も止まらなくてもいいとさえ思う。言葉と向き合うことから逃げられるなら、と。

 そんな彼の考えを見透かすように、一台の使い込まれたランドクルーザーが、静かに彼の横に停車した。


 運転席から顔を覗かせたのは、三十代後半くらいの女性だった。日に焼けた肌に、意志の強そうな瞳。短く切った髪が、風に小さく揺れている。

 「新潟までは行かないけど、小国町の先までなら。乗る?」

 サバサバとした、心地よい声だった。

 彼は礼を言い、助手席に乗り込んだ。


 車内には、草いきれと、どこか甘く、懐かしいような植物の香りが満ちていた。

 「旅の途中?」

 「はい。小説を書いています」

 「へえ」

 女性はそれ以上何も聞かず、静かに車を走らせた。その気遣いが、今の彼にはありがたかった。車は市街地を抜け、飯豊連峰の山々が迫る、緑の深い道へと入っていく。


 沈黙に耐えきれなくなったのは、彼の方だった。山寺での体験と、言葉を「彫る」ことへの怖れを、まるで懺悔のように語り始めた。

 女性は、彼の話を黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。

 「言葉を彫る、か。面白いわね。私は、紙を漉いてる」


 彼女はミサトと名乗った。この先の小国町で、和紙の原料となる楮(こうぞ)を育て、自らの手で紙を漉いているという。

 「紙漉きもね、削ぎ落とす作業の連続よ。楮の黒い外皮を剥ぎ、緑の甘皮を削り、白い靭皮(じんぴ)だけにする。それを煮て、叩いて繊維をほぐし、塵を取り除いて、水の中で何度も、何度も漉き上げる。不純なものを、どこまでも取り除いていくの」

 その工程は、仏壇職人の仕事や、民話が生まれる過程と、不思議なほど似ていた。


 「でもね」とミサトは続けた。

 「いい紙っていうのは、決して自分を主張しないの。書かれた文字や、描かれた絵を、ただ静かに、百年先でも支えるのが仕事。その、真っ白なままで、全てを受け止めて支えるっていうのが、一番難しい」


 ――支える。

 その言葉が、彼の心を強く打った。自分は、言葉そのものを輝かせよう、言葉で何かを表現しようとばかりしていた。だが、本当に彫り上げるべき言葉とは、その言葉が伝えるべき物語や感情を、ただ静かに、力強く「支える」ものでなければならないのではないか。


 やがて車は、清流のせせらぎが聞こえる山里へと入っていった。

 「よかったら、見ていく? 私の仕事場」

 ミサトはそう言うと、古い農家を改装した工房へと彼を招き入れた。


 工房の中には、清冽な沢の水が引き込まれ、ひんやりとした空気が満ちていた。壁には、漉き上げられたばかりの和紙が、静かに干されている。

 ミサトは、その中の一枚を手に取り、彼に差し出した。

 「触ってみて」

 彼は恐る恐る、その真っ白な和紙に指先で触れた。

 それは、ただの白い紙ではなかった。表面には、楮の繊維が作り出す不均一で、しかし美しい地合いが見える。温かみがありながら、同時に、決して揺らぐことのない芯の強さが、指先から伝わってくるようだった。

 自己を主張しない、完璧な白。だが、その白さの奥に、削ぎ落とすという厳しい工程と、作り手の静かな祈りが凝縮されている。


 彼はその時、はっきりと理解した。

 自分が探すべきは、派手な言葉ではない。物語の種でもない。まず見つけなければならないのは、この和紙のような、これから紡ぐ物語の全てを、静かに、力強く支えることのできる、誠実で、揺るぎない「文体」そのものなのだ、と。


 礼を言って工房を出ると、ミサトは何も言わず、ただ静かに手を振ってくれた。

 再び一人になった彼は、川のせせらぎが響く道を歩き出す。リュックの重みは変わらない。だが、心の中にあったはずの、言葉への怖れは、不思議と消えていた。

 今はまだ、その白い和紙に何を書くべきかは分からない。

 だが、次にパソコンを開く時には、もう迷わないだろう。一行目を書く前に、まず、その言葉を支えるための、真っ白で誠実な余白を、心の中に準備することから始めればいいのだから。

 彼の旅は、また一つ、静かで、しかし決定的な深みを得ていた。

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