第19話 余白の先にあるもの
ミサトの工房を後にしてから、彼はしばらくその山里をあてもなく歩いた。川のせせらぎ、風にそよぐ木々の葉音、遠くで響く鳥の声。それら全てが、主張することなく、ただそこにあることで世界を支えているように感じられた。
――支えるための、白。
その言葉が、巡礼の後の疲れた心に、ゆっくりと染み渡っていく。
結局その日は、それ以上ヒッチハイクをする気にはなれず、小国町の小さな旅館に宿を取った。通されたのは、縁側から小さな庭が見える、古いが手入れの行き届いた和室だった。畳の匂いが、心を落ち着かせる。
彼は夕食の後、机に向かった。しかし、パソコンはリュックから出さなかった。代わりに、昨日コンビニで買った、ごく普通のノートとボールペンを取り出す。
真っ白なページを前に、彼は目を閉じた。
何も書かない。ただ、その白さと向き合う。
この余白は、恐怖の対象ではなく、可能性そのものだ。ミサトが漉いた和紙のように、これから生まれるどんな物語でも受け止め、支えてくれる土壌なのだ。
彼はゆっくりと息を吸い、そして、ボールペンを握った。
書き出したのは、小説ではなかった。
旅に出てから出会った人々の名前。
『通りすがりのオヤジ』と名乗った、古いワゴン車の男。
札幌市場の、藤島さん。
計画的な旅をしていた、大学生のユウキ。
秋田の郷土料理屋の、大将と女将さん。
寡黙な仏壇職人。
民俗学者の、大江教授。
そして、紙漉きのミサトさん。
一人一人の名前を記すたびに、その人の顔、声、仕草、そして交わした言葉が鮮明に蘇る。彼らは、物語の「種」としてではなく、この旅という余白の中に確かに存在した「事実」として、彼の心に刻まれていた。
次に、彼らが見せてくれた景色を書き出した。
夏の靄がかかった山々。
観光客のいない、朝の小樽運河。
冬の境目のない海の色(それはまだ見ていないが、確かに聞いた)。
たわわに実った、青いリンゴ畑。
五大堂から見下ろした、緑の海。
沢の水が流れる、和紙の工房。
書き連ねていくうちに、彼は気づいた。
これまで自分は、「何を書くか」ばかりに囚われていた。だが、本当に大切だったのは、「何がそこにあったか」を、ありのままに受け止めることだったのかもしれない。言葉を彫る前に、まず、彫るべき原石そのものを、曇りのない目で見つめること。そのために、心の中に誠実な余白が必要だったのだ。
その夜、彼は何年かぶりに、深く、夢も見ない眠りに落ちた。
翌朝、新潟を目指して再び国道に出た彼の表情は、昨日までとは明らかに違っていた。焦りも、気負いも、怖れもない。ただ、静かな決意だけが、その瞳の奥に灯っていた。
次に止まってくれたのは、新潟市内の鮮魚市場へ向かう、恰幅のいい男性が運転する保冷車だった。
「兄ちゃん、旅人か。いいなあ、若いってのは」
豪快に笑う男の話は、ほとんどが魚のことと、家族の愚痴だった。派手な物語は何もない。だが、彼はその一言一句を、ノートに書き留めた時と同じ、静かで誠実な心で聞いていた。
男の言葉の端々に見える、仕事への誇り、家族への愛情。それらは、どんなに飾り立てた言葉よりも、ずっと強く、人の心を打つ。
――物語は、探すものではない。ただ、そこにあるものに、耳を澄ませばいい。
新潟市内に着き、保冷車を降りた時、彼の背中は、旅に出た時よりも少しだけ、まっすぐに伸びているように見えた。
港から吹いてくる潮風が、久しぶりに懐かしい。北海道の匂いとは違う、工業地帯の油の匂いが混じった、力強い風だ。
彼は、今夜もすぐに宿を探し、パソコンを開くことはしないだろう。
まず、この街の音を聞き、匂いを嗅ぎ、人々の声に耳を澄ませる。自分の心という和紙に、この土地のありのままを、ゆっくりと染み込ませていく。
まだ、一行も小説は書けていない。
だが、彼の内側では、かつてないほど豊かで、力強い物語が、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。
旅は続く。余白の先に、本当の言葉を見つけるために。
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