第17話 千十五段の巡礼


 最初の一段に足を乗せた瞬間、むわりとした湿気と濃い土の匂いが彼を包んだ。鬱蒼と茂る杉木立が空を覆い、昼間だというのに辺りは薄暗い。無数の蝉の声が、まるで目に見えない壁のように、四方から彼の体を圧迫した。


 石段は、長年の間に多くの人々に踏まれ、角が丸くすり減っている。一段、また一段と登るたびに、すぐに息が切れ、額から玉の汗が噴き出した。リュックの重みが、これまでの人生で背負ってきた余計なプライドや見栄のように、肩に深く食い込んでくる。


 ――本当に、こんなことで何かが変わるのか。

 ふと、疑念が頭をもたげる。机の上で苦しんでいた自分と、汗まみれで石段を喘ぎながら登る自分。やっていることは違えど、ただ苦しんでいるだけではないのか。

 足を止めそうになる。その時、脳裏に仏壇職人の険しい横顔が浮かんだ。


 『いらねぇ言葉を削ぎ落として、残すべき芯だけを残す』


 彼は奥歯を噛みしめ、再び足を前に出した。これは単なる登山ではない。自分の中にこびりついた、錆のような言葉を削り落とすための巡礼なのだ。

 登ることに意識を集中すると、不思議と雑念が消えていく。ただ、呼吸の音、心臓の鼓動、石を踏む足音、そして蝉の声だけが世界を満たしていた。


 石段の途中、岩肌に彫られた仏像や、苔むした石碑が静かに佇んでいる。何百年も前から、この場所で人々の祈りを見つめてきた存在だ。彼らの前では、自分の悩みなど、あまりにちっぽけで、取るに足らないものに思えた。


 やがて、視界が開け、仁王門が見えてくる。そこを過ぎると、道はさらに険しくなった。鎖を頼りに崖を登るような場所もある。肉体は限界に近かったが、不思議と心は澄み渡っていく。汗でシャツが肌に張り付き、体中の水分が絞り出されていく感覚。それと引き換えに、心の中の澱んだ何かも、一緒に流れ出ていくようだった。


 どれくらい時間が経ったのか。最後の石段を登りきった彼の目の前に、断崖に張り付くように建てられた五大堂が現れた。舞台造りの回廊に足を踏み入れ、手すりに凭れかかった瞬間、息を呑んだ。


 眼下には、緑の山々が幾重にも連なり、その間を縫うように、彼が旅してきた道が白い線となって伸びている。ミニチュアのような町並み、田園。全てが、圧倒的な静けさの中にあった。

 ジリジリと鳴り続けていた蝉の声が、ふっと意識から遠のく。いや、声は変わらずそこにある。だが、それはもう騒音ではなかった。広大すぎるほどの静寂を際立たせるための、ただの背景音になっていた。

 ――これが、「閑さ」か。

 芭蕉が見た景色、聞いた音の、ほんの一片に触れた気がした。


 彼は、ここで何か劇的な言葉や、物語の筋が浮かぶわけではないことを知った。そうではない。ここで得たのは、彫るべき言葉の「在り方」だった。

 それは、飾り立てた美辞麗句ではない。奇をてらった比喩でもない。ただ、そこにあるものを、あるがままに、しかしその本質を捉えて、寸分の無駄もなく差し出すこと。岩にしみ入る蝉の声のように、静かで、だが深く、心に届く言葉。


 彼はしばらくの間、ただ風に吹かれ、眼下の景色を眺めていた。

 下りの石段は、驚くほど足取りが軽かった。肉体的な疲労は残っているのに、背負っていたリュックが、まるで空になったかのように感じられる。


 麓に戻ると、大江教授のステーションワゴンはもうどこにもなかった。礼を言う機会は失われたが、それでいいと思った。教授が与えてくれたのは答えではなく、問いを深めるための時間と場所だったのだから。


 彼は山形市内に戻るバスに乗り込み、窓の外を流れる景色を眺めた。

 夕日が、田んぼの水面をオレンジ色に染めている。ありふれた風景。だが、今の彼の目には、その一枚の絵の中に、農夫の汗や、土地の歴史や、巡る季節の物語が、幾重にも重なって見えていた。


 次に目指す場所は、まだ決めていない。

 だが、確かなことが一つだけあった。

 これからの旅は、ただ南へ向かうのではない。自分だけが彫り上げることのできる、まだ名前のない「芯」が宿る場所を探す旅になるだろう。彼の第二章は、この山寺で、本当の意味で始まったのだ。

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