未だラクエン、下
また少し経って、パズルの穴がだいぶ埋まってきたころ。
何の前触れもなしにいきおいよく保健室の戸が開けられて、同時にばたばたと誰かが入ってくる。大きな音にアヅキは飛び上がって、あやうく進捗をゼロに戻すところだった。
「うえぇん……っ」
入ってきた生徒はアヅキがいることにはまだ気付いていないようで、景気よく声を上げて泣いていた。一人で泣くために逃げ込んできたのであればちょっと悪いなという気持ちにもなる。
あるいはケガが痛くて泣いているかだ。
アヅキはそっと近付いて、耳元に囁いた。
「……墓場へようこそ」
「キャーーッ!」
生徒は驚いて飛び退くと尻餅をついた。
前髪の隙間から怯えた赤い目がのぞく。
「……ダイジョブ?」
「え……誰……?」
「二年生二番のアヅキです。保健室の留守番やってます」
顔も知らない生徒はアヅキを見て、涙が引っ込んだようだった。
椅子に座ってもらうと、促すまでもなく話し始めた。
生徒はロビンといった。ロビンの話では、三年生になると歌の授業が始まるという。
「そうなんだ」
「……知らない? 朝礼でも三年生は時々合唱を披露するから、二年生でも知ってることだと思ってた」
ロビンが不思議にするので、まあわたしユウレイだからと適当にごまかす。
「僕はすごく楽しみだったんだ、歌を習えるの。だけど、僕の友達はそうじゃなかったみたいで」
ロビンの同級生で友達のイヴは、どうやら頑なに歌おうとしないらしい。
どうして歌いたがらないのかはロビンにも先生たちにも分からない。歌の授業の時だけ黙りこくるイヴをクラスメイトたちは訝しみ、先生は根気よく歌わせようとする。
楽しいはずの音楽の授業は重い空気に満ちているし、何より一番の友達がずっと白い目にさらされているのが耐えられない。
「何度もイヴに言ったの。もし不安なら一緒に練習しよって。それでもイヴは歌いたくないからほっといてって」
イヴと喧嘩になったロビンはここまで逃げてきて、こっそり泣いていた……ということらしい。
「大事な友達なの。歌わないせいで笑われてるなら、何とかしてあげなくちゃ……」
一度泣き止みはしたが、話しているうちにまた落ち込んできたようだ。目尻にまた涙が滲んでいた。
「ウ~ン、単純に何で歌いたくないのか考えたら……いち、純粋に歌がキライ。に、歌声が変で聴かれたくない。さん、絶対に譲れないこだわりがある」
「そんなあっ……」
「冗談冗談。わたしあんまり歌とか歌わないし、イヴ先輩の気持ちは想像しづらいかもなあ」
ロビンはすっかりしょげてしまってテーブルの一点を見つめていた。
「…………」
「ロビン先輩はすごい。歌うのが当たり前で、すごいよね。」
先輩は首を振った。
「僕は別に、特別上手なわけじゃないよ。歌うのがたのしいだけで」
きっとイヴ先輩はそんな友達がプレッシャーに感じてるんだろうな、なんてダイナには言えてもこの人には言えない。
余計なこと言っちゃうな、とアヅキはちょっと内省して。もう一度言葉を探す。
「……あのね、ロビン先輩。その、イヴ先輩のハナシじゃないかもしれないけど聞いてくれる? ……わたしたちには向いていることと向いてないことがそれぞれあって」
「え……」
「努力して埋められるヒトもいて、それはすごいと思う。でもさ、努力には大きなエネルギーを使うじゃない? 努力にすらたどり着けないで、立ち止まってしまうヒトも、いると思うの」
足がもつれておでこをぶつけるのが怖くて。
「……だけど歌は僕たちに必要なものだよ。歌わないままじゃいけない……」
「うん。そんなの逃げてるだけだ。それはね、わたしたちもわかってるの」
臆病者だ、と真正面から言った声を思い出す。
「臆病者なの。みんなと同じにできないかもしれないのが怖いの。遅れてしまって、一緒に楽しめないのが嫌なの。友達が楽しいことを共感できないのがつまらないの」
それなら踏み出さないで、一人で彫像のように固まっている方がきっとラク。そう思って。
「でもね、もしイヴ先輩に、本当は歌ってみたいっていうキモチが少しでもあるなら」
最初の一声が怖いだけなら。
「踏み出した矢先に転んだわたしを受け止める、そんなヒトがいてくれたなら――」
「…………」
ロビン先輩はアヅキの下手くそな言葉をじっと聞いていた。もしかしたら、半分も伝わっていないかもしれないけれど。
ミルクパズルがなかなか埋まらないように、一文字一文字を伝えるのも、こんなにも難しい。
すん、とロビンの鼻が小さく鳴る。
「……ありがとう。アヅキちゃん」
そんな言葉を残して、ロビン先輩は保健室から足早に出て行った。
「……すご。ツキトジ先生みたいなことしちゃった」
アヅキはぼんやりしたままそう言って、再び白いパズルの元に戻った。
「――あとすこし、」
そう、本当に、あとすこしだ。
パチンパチンとはめていく感触がだんだんと強くなっている。
最後の小さな穴が埋まる。
は、と息が漏れる。
余すところなく白いパズルは、完璧は円を象っていた。
「ダイナ」
無意識にアヅキは呟いていた。
◯
春の夜は少し長い。太陽がずっと眠たいのか、早くに沈んで、遅くに目覚める。今日も同じで、アヅキが学校を出るころには空がピンク色に染まり始めていた。
パズルが完成したのに、達成感はさほどなかった。
(やっぱり雑念が多すぎたんだ)
今までなら脇目も振らず集中できたのに、今はぼんやり帰ることさえままならない。
いや、ぼんやりといえばぼんやりだ。むしろぽっかりと白い穴が空いたような気持ちでいる。さっきからずっと、頬が濡れている。
ぱしゃんと足元の水を蹴って水面を揺らす。八つ当たりだ。
ロビン先輩はアヅキにありがとうと言ったけれど、アヅキは自分にこのやろうと思う。
話しているうちに気付いてしまったからだ。
すごく貴重な相手を、アヅキは突き放したんだと。
「アヅキ」
放浪するようなアヅキの足を、誰かが呼び止めた。
声の方へそろりと視線をやる――少し遠くにいたのは、ダイナだった。
「ダイナ? や、やあ、今帰、り――」
取り繕って挨拶しようとして、涙の塊で詰まった喉が邪魔をする。
どうしよう、やっぱりまた出直そうか。迷っているうちに、ダイナは一歩ずつ歩み寄……
「……!?」
捕食者の如く綺麗なフォームでアヅキに狙いを定め、猛スピードで接近してくる。アヅキは思わず踵を返した。
「ひいい何で追いかけてくるの~!」
「お前が逃げるからダロッ!!」
当然、ダイナから逃げ切れるわけもない。捕まるまでもなく、体力切れで走れなくなるまで後ろから見守られる形になった。
「ぜ、ぜえぜえ」
「情けないな。デルタコロニーに生まれたくせに水の上もまともに走れないのか」
アヅキは湿地をあのスピードで走れるダイナの方がおかしいと思う。
「な、なんで、構ってくんの」
「お前はなんで逃げるんだよ」
胸を押さえながらゆっくり顔を上げると、オレンジ色にむくれたダイナの顔が自分を見下ろしていた。
「……ダイナ、」
「ん」
「会えないの寂しかった……」
埋められて初めて気付く穴もあるのだ。
ダイナはくすぐったそうに笑った。
「自由自在な奴だな。自分で避けといて」
「返す言葉もございません。ごめんなさいでした」
アヅキは誠心誠意謝るのだった。
「で、いじってたらちょっと曲がっちゃったんだ。でもツキトジ先生なら気付かないだろうなって思って。そしたらセンセ~……」
「はははっ!」
くだらない話をして、少しおしゃべりに夢中になっただけであっという間に暗くなっていく。
「センセ~がね、ずっとダイナのこと気にしてるよ。大丈夫かなって……言ってはないけど」
「ないのかよ」
言ってはないけれど。
「ダイナが乗り越えたこと、見た目よりずっと喜んでる。センセ~、アマノジャクだから」
「アヅキってなんだかんだ先生のこと大好きだよな」
「イー」
感情の乗らない顔で意味のない発声をしてしまい、なんだその反応と眉をひそめられた。
「ンー、センセ~がわたしの最後の受け皿だから。センセ~が見つけてくれなかったらほんとにダメになってた」
入学して数ヶ月、早々に気力がすっからかんになっていたアヅキを保健室のベッドに引き上げてくれた。あまり当時のことを思い出すとしんどいのでママにも話していない。アヅキは首の後ろをかいてもそもそと話す。
「なんか気も合うし。居心地が良すぎて離れられナ~イ」
「お前が染まっちゃったんじゃないか?」
まさしく保健室の地縛霊。あの部屋のぬるい優しさに慣れてしまった。
「保健室のこと墓場って言っただろ」
「え? だれが?」
お前が、と小突かれて、そういえば今日も先輩に似たような挨拶をしたかもと思い出す。
「幽霊だとか言って、お前は自分が終わったものみたいに言うけど。ただ眠ってるだけだよ。お前は底まで沈みきったんだ。そしたら、上がるだけだろ?」
「人生、底なんてないよ。どこまでだって落ちていける。夜はこれから」
心地のいい言葉ばかり並べられるのにも慣れてしまった。ダイナの優しさも大人の慰めも素直に受け取れないし、一年間煮詰めた反論ばかりが口から出てくる。
「つべこべ言うな!」
しかしダイナはそれにすら踏み込んだ。
「断言してやる。お前が一年過ごした保健室。この愉快な楽園がお前の一番深いどん底だ! お前はそれ以上落ちないし、一緒に落ちてもやらない。もう――」
あんなのはごめんだから。
「……ダイナってすごいね」
「真面目に言ってんだぞ」
呑気なコメントにダイナはムッと顔を険しくする。対してアヅキは夜なのにだんだん首筋あたりから暑くなってきて、手で顔をあおいでいた。
「それって一年で教室行かせるから、ってこと?」
「それだけじゃないぞ。俺たちは卒業したら旅に出るんだから。人生はそこからスタートだろ?」
旅、と口にした瞬間にダイナの目が煌めく。
「……旅。それこそ実感ないけど」
「なんで羽を戴く前から弱気なんだよ」
つまらない奴、みたいな視線を向けられて口を尖らせた。
「だってさ。どうする? わたしだけ羽じゃなくてウサギの耳が生えたりしたら。今までのツケが回ってきて明らかに飛べないものが生えてきたら」
「すげえ発想」
ダイナはカラカラ笑った。こんなによく笑う子だったっけ。
「決まってるだろ? 歩いてくんだよ。空だろうが道だろうが、旅立ちには違いない」
「――――……」
いくらでも湧いて出てくる不安や卑屈を、ダイナはサラッと食べてしまう。アヅキは苦くて持て余しているのに。
綺麗すぎて、もう笑ってしまう。
「聞いたことないよ、戴翼式の日にてくてく歩いて出発するヒトの話なんて。じゃあ――ダイナは旅に出たら行きたいところとか、あるの」
「どこでもいい。世界中を回ってみたい。どこまでいけるか試したいんだ」
「やばあ」
「おい、」
「……どこにだっていけるよ。ダイナは」
だってどんなところにいたって、なんとかなっているキミしか浮かんでこない。
お前は、と問いを返されて、アヅキは考えたことのなかったところに思考を回した。考えるために空を見上げ、小さく瞬く星々のさらに上に、忽然と浮かぶものに目を奪われた。
「――月」
「え」
「月、かな」
もしこんなわたしでも飛べるのなら。
あの白い円をめがけてひたすら飛んでいってみたい。
「なんつって」
アヅキはぴょんと意味もなく跳んで、遊ぶように背中から浅い流水に倒れ込んだ。
ダイナは一瞬、きょとんとして。
それから、やられたというように笑った。
「……お前の方がすごいよ」
「え?」
「いいな、それ。それも行こうぜ」
ダイナの予定がいつの間にかまた一つ増えたらしい。下手したら月まで引っ張っていかれそう。
アヅキは両手を天へ向けて言った。
「あのさ、起こして」
「お前はほんとに自由だよな、ほら」
ほら、と伸ばしてくれた手。しかしその手を逆に引っ張って、不意を疲れだダイナをびしょ濡れにすることに成功した。
「わあっ! おっまえ……」
「ワハハ。やった~、ブッ」
愉快になってけらけら笑っていると、顔面に水の報復を食らう。
「水遊び初心者が、使い古されてんだよ! くらえ!」
「オワー!」
バシャバシャと夜の湿地で水飛沫を立てて大騒ぎした。
白熱しかかった水かけ合戦に終止符を打ったのは、二人ではなかった。
「生きてる!?」
突然水から持ち上げられて軽く浮き上がる。誰かの両脇に抱えられる形になったアヅキとダイナは舌を噛みそうになって、冷水をかけられた猫のように目を丸くした。
「……!?」
二人を軽々抱えた誰かは、大きな羽で川岸まで飛んで送ってくれた。ふわりと着地した二人に畳み掛けるように何があったのか聞いてきて、ダイナが彼女の質問に一言ずつ差し込むようにして答えていた。
「……なんだ、溺れてるのかと思ったわ。ダメじゃない、こんな暗い中で水遊びしたら」
会ったことのないその大人。白い上着にピンクブロンドの長い髪、誇り高く広げた羽。何より凛と透き通った綺麗な声が、今まで感じたことのない強いオーラのようなものを感じて。抱え上げられた瞬間から、二人はそのひとから目が離せなかった。
「すみません」
「あら、素直。いいのよ、あなたたちを咎める大人が近くにいないのが悪いわ。ここは子どものために集まったコロニーなのに」
そのひとは立ち去る気配もなく、二人の前に膝をついて服が汚れるのも構わずに問うた。
「それで? 何をしてたの?」
アヅキとダイナは目配せをした。
「……将来の展望についての議論を?」
「アハハ。不良少女かと思ったら、ずいぶんと真面目な話をしてたのね」
天使のような大人は快活に笑った。
「そうね……将来っていうあやふやな空は、夢と自由、希望と不安に満ちている。もしかしたらアナタたちが期待した世界とは違っているかもしれない。アナタたちが想像するより美しいかもしれない」
ルルル、とささやかな歌を話の間に挟んで、気まぐれにまた続けた。
その瞳は、ツキトジ先生と同じあたたかい色をしていた。
「アナタたちが飛び立ってしまう前に、ワタシたち大人はめいっぱいの祝福をあげたいのよ」
チカチカとまばゆい。
その大人は言いたいことを言い終えると、「じゃ、早く帰って寝なさいね」と歪に結んで去っていった。
去り際の飛び姿すら神々しく、雛たちの目を奪う。
「今の、何?」
何が起こったのかも分からない速さで過ぎ去っていった奇跡にアヅキは呆然とした。どこの誰だとか、もう二人にはどうでも良かった。何かすごい体験をしたと思わされる強い憧憬。
ぽけっとした背中を興奮したダイナに叩かれて。
「——すげえっ、今のひと!」
「アタタ」
「いまの、青鳥だろ? 俺たちがいつかなる、世界を歌で救う祝福の鳥! 何人か会ったことはあるけど、あんな人は知らない。おい、みてたろ!」
「う、みてた、けど……」
「ああいうひとになりたいよ」
一目見て、少し話して、歌声を聴いた。それだけでわかる。彼女は偉大な青鳥なのだと言うことが。
けれど今はキミの方が眩しいよ。いつまでも空を見上げるダイナに、アヅキはたまらずきゅっと目を閉じたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます