未だラクエン、上
その日の朝は、蕾が突然ほころぶように、小さな変化を迎えていた。
「アヅキ」
すっかり慣れた声に振り返って、挨拶しようと口を開けたところでアヅキは固まった。
その顔を一目で見て分かる。
ダイナは大きな壁を乗り越えた。
「もうダイジョブなの?」
「うん」
今までで一番穏やかで晴れやかな表情。こんなに柔らかい顔は初めて見る。
「今日から教室に行くよ。ミトもそろそろ退院するころだろ。先に復帰したから俺の勝ちだ」
ふふんと得意げにダイナは鼻で息を吐く。
ツキトジ先生にも挨拶をしたいと、アヅキと共に保健室に立ち寄って。
先生は、珍しく二人が来る前から保健室にいた。
「あっ本当? よかったじゃん」
あっけらかんと言って、先生はコーヒーに口をつけた。その返答は淡白すぎて、少し期待外れであった。
「ソレだけ?」
「最高~~!」
先生はマグカップを高く掲げて破顔してみせる。
「キモチ悪、」
「なんか白々しさが消えないんですけど」
ぐだぐだと文句を垂れる生徒二人にツキトジ先生は口を尖らせた。
「なんだい君たち、全身で喜びを表現してるでしょうが。というか別に出所したとか受験に合格したとかじゃないんだから。普通の状態に戻っただけ。普通に見送るよ、私は」
こん、とカップの底がテーブルと音を立てる。右手がアンニュイに持ち上がって……ダイナの頭で軽くバウンドした。
「また落ちたらおいで」
「次は飛んでやる」
「つよ」
朝の音楽が流れ始めた。時期にチャイムが鳴る。するとダイナは鞄を肩に担いで背筋を伸ばした。
「じゃ、行きます」
そういえば、とアヅキが引き留めて言う。
「誰だっけ……あの二人。タックルしたりやなこと言ったりしてゴメンって伝えてくれる?」
「自分で伝えろよ」
ダイナは相変わらず厳しいが、「わかったよ」とも言ってくれた。
「じゃあ……」
「あ、いく? ……おつとめ、ご苦労様ですっ」
「もう来んなよッ」
「本当に出所ごっこせんでいいから」
ダイナはアヅキを置いて行ってしまった。
チャイムが鳴る。
「あらら、立派な打ち身。廊下走るから人にぶつかるんでしょうが」
べしんとツキトジ先生の手が膝小僧を容赦なくはたき、生徒の情けない声が保健室に響いた。
「いったあ。ちょっと先生~」
「アヅキ君、湿布持ってきて。……アヅキ?」
先生が振り返ると大抵はダラダラと机に溶けている保健室の住人の姿はなくて、ベッドの一角のカーテンが閉じられていた。白い布の向こうで息を潜めているようだった。
「アヅキ~」
「は~い」
「思ったより元気な返事」
カーテンの隙間から小さなピースがのぞいてわしわしと動く。昆虫の触覚のよう。
「ちょ、入るよ」
ドウゾ~と小さな声が返事をして、ツキトジ先生を出迎える。
「はい」
「はいじゃないよ、ちょっと」
アヅキはタイルと一体化していた。片足だけをベッドに残し、身体を床に放り出して。アヅキを見下ろす先生の呆れ顔がとても遠い。
「脱力しすぎね、それ」
「センセ~でか……」
「君が小さいんだよ」
先生はしゃがんでアヅキを真上から眺めて言う。
「……どうした、少女」
「ウ~~ン」
腕で目を覆って、バタバタ足を動かして、アヅキはやっと小さく言った。
「……わたしはごみ……」
「なんだいそれは。」
「センセ~のかげに隠れて怠惰を貪る役立たずのどろどろ怪物、みたいなさ」
「だいぶ深いとこまで沈んだね、どろどろさん」
「むう……」
うなるだけの言葉の種を先生は掬い出す。
「寂しいか、少女」
「なにが」
に、と先生の口角が上がった。
「君は君で、ちゃんと進んでいるんだよ」
「…………」
腕の下から覗いたのは疑いの目。
「ま、どう進んでいるかなんて自分じゃわからないもんだから。比べてしまうと気が遠くなるよね。とか言っても先生も低空飛行してるタイプだし?」
先生は右手を膝に置き、よいしょとバランスを取り直す。片手がずっと塞がっていて、不便そうだ。
「センセ~のソレはいつ治るの?」
「これだってゆっくり治ってんの。そのうち取れるから、もうちょっとお手伝い頑張ってくれるひと~?」
「……アハハ。しょうがないなあ」
◯
ダイナが教室に行くようになってから、保健室で過ごす時間がまたゆっくり進むようになった。
と。
耽る暇もなく。
「こんにちは!」
聞き慣れた鋭い挨拶。
昼のチャイムが鳴って数分が立つと、早々にダイナが戻ってきた。
「アヅキ? いないのか」
ダイナは保健室を探し回り、ツキトジ先生の机の下からあっという間にアヅキを見つける。引っ張り出されたアヅキは問答無用でテーブルに座らされる。
「何隠れてんだ、全く」
「なんで来てんのお……」
「友達とご飯食べて何が悪い」
手を合わせ食べ始めようとする同級生を、アヅキはソワソワと窺って。
「食べないのか? お前、弁当は?」
「アッエット、ちょっと今日お腹の調子が。トイレ行ってくるね!」
「は!?」
椅子を蹴るように立ち上がり、アヅキは引き止める間もなく保健室から飛び出して行ってしまった。足音の遠くなっていく部屋の戸をぽかんと見ていたダイナの視線はゆっくりとツキトジ先生へ。
「…………」
ツキトジ先生は笑顔で首を傾げるだけで、何も言ってくれなかった。
それから、ダイナが授業の合間に保健室を訪ねるのを見計ったように、アヅキは姿をくらますようになった。
「ツキトジ先生! アヅキは」
「どっか行ったよ」
「クッ」
ダイナはイライラと歯軋りをする。それを眺めて笑いを堪えつつ、先生は一応聞いてみる。
「何してんの、君たちは」
「知りません。あいつに聞いてくださいよ。俺が教室に登校するようになってから全然……目も合わせなくなった」
奇行は今に始まったことじゃないけれど、今回は全く何がしたいんだかわからない。かくれんぼを楽しんでいる……というわけでもあるまい。
「ふーん……」
「先生? もうちょっと真剣に聞いてくださいよ」
「でも私が言うと予想も答えになっちゃいそうだからな」
先生はそう言って、床に響かない靴で奥まで歩いていく。そしてベッドのカーテンをつまんで振り返った。
「――とりあえずダイナの方が隠れてみたら?」
「え」
ダイナは訝しげに首を傾げた。
やがて放課後のチャイムが鳴って、アヅキがこそっと帰ってくる。
「ダイナは? さすがに帰った?」
「さあ」
保健室にいるのはデスクに座るツキトジ先生だけ。他の誰の鞄もない。よし、とアヅキは自分のリュックに駆け寄った。
「そうそう、ダイナだけど。すごい悲しそうだったよ?」
「ん……」
片手で器用に紙を纏めながら、ツキトジ先生は言う。
「なんで避けてんの。かわいそうでしょ」
「別に避けては」
「言い逃れが効かないくらい避けてるね」
「…………」ぐうの音もでない、といったようすで黙り込むアヅキ。
先生は追及しすぎず仕事を続ける。と、やがて小さな声が弁明を始めた。
「ダイナは抜け出せたヒトでしょ。教室で友達がちゃんといて、勉強もちゃんとできる。わたしは違うから」
「線引き? せっかく友達になったのに」
「うん。トモダチ。ダイナも言ってくれた。嬉しかった」
リュックを抱き寄せる。
「だけど住む世界が変わっちゃったから。元に戻っただけだけど」
ダイナはカーテンの奥で息を潜め、それを聞いていた。
また自分は距離を誤ったらしい。相手に期待をしすぎて、傷つけてしまう。
アヅキもいつか追い詰めてしまうくらいならこのまま……。
「ってなるかあ!」
「きゃーーっ!」
鬼の形相でカーテンから飛び出してきたダイナは、とっさに逃げ遅れたアヅキをとうとう捕まえた。勢いあまって一緒に床に倒れ、ダイナはアヅキが逃げないよう膝に体重をかける。
「おい、今のフワッとした説明で納得できると思うなよ」
「ひ、ヒエ……」
押し倒されたアヅキはライオンに噛み付かれた鹿か何かのように怯えている。ギラッと睨むダイナの顔はたいへん恐ろしかった。
「アヅキ。俺、言ったよな。お前のこと置いてくつもりはないって」
「言ったっけ? 言ってた?」
返ってきたのはツキトジ先生のコーヒーを啜る音だけ。ダイナは有無を言わさず続けた。
「一年で行けるようにするって言ったよな。じゃあ少なくとも一年は会いにくるに決まってんだろ。一週間も持たねえのか、お前は!」
「それはいいってば。重荷って言ったじゃん! ダイナが約束を覚えてても、わたしにソレは叶えられない!」
「はあ? 一年もあるんだぞ、まだわかんないだろ!」
「わかるよ。ダイナは時間を無駄にする」
アヅキの言葉があまりに勝手な確信を持っていて、ダイナは思わず言葉を失った。
「キミの邪魔になりたくないんだよ」
「…………」
ダイナは静かに立ち上がり、アヅキを解放する。
「わかった」
それだけ言うと、保健室を去っていった。
◯
ウ~ン、とうなる声が保健室でしきりに聞こえてくる。
「なにしてるの、アヅキちゃん」
上から覗きこんできた落ち着いた声は聞き覚えがあるようで、振り返ってみるとやっぱり知っている顔だった。
「ダヴ先輩だ。またケガ?」
「今日は付き添いだよ」視線で示された方を見ると、確かに五年生らしき人が先生と何か話している。
「……パズル?」
「ミルクパズルだよ」
床にシートを敷いてアヅキが向き合っていたのは細かいピースたち。裏も表も真っ白に塗られていて、バラバラに積み上げられたそれらは雪の一つ一つを見分けられないのと同じであった。
「手元で集中できるものがあるといいんだ。雑念が消えるから」
アヅキが端っこのピースと真ん中のピースを分ける作業に戻りながらそう言うと、ダヴ先輩はくすっと笑った。
「修行僧みたい」
「これを完成すれば……楽園に行けるじゃろう……」
「ふふふ、誰?」
少し話したら、ダヴ先輩は授業に戻っていく。
すると暇になったのか、入れ替わるようにツキトジ先生が様子を見に来た。
「それ楽しい?」
「さあ。完成しないとわかんない」
「なんじゃそりゃ」
ミルクパズルなので、全てのピースがあるべきところにはまったとしても絵が完成するわけでもない。完成した瞬間の、一瞬の達成感の大きさに賭けている。
アヅキが保健室で色々と趣味に没頭するところを、ツキトジ先生は特に興味も示さないが止めもしない。おかげで時間の潰し方には事欠かない。ちなみに一番長く続いているのは編み物系の手芸だ。編んでは解き、編んでは解くの繰り返しが無常で楽しい。
午後から始めたので、その日はピースの仕分けで精いっぱいだった。分け終えてさあ始めようとしたところで、ツキトジ先生に肩を叩かれたのだ。
「チャイムとっくに鳴ってるから帰れ」
「ぁい……」
それから数日は、課題や昼食以外の時間を全部充て、無為にミルクパズルに全力を注いだ。ピースが爪くらい細かいので完成形が小規模でも結構時間がかかる。そのうえパズル自体が初めてだから、端からやるといい、というくらいの知識しかなかった。時間がかかって当然だろう。
アヅキはピースをつまんで位置を考えては、噛み合うもの同士を真剣に探す。
よく飽きないねえ、と背中でつぶやく声。
ようやく輪郭が繋がったときには一日が終わり、次の日まで床に放置。翌朝登校して、また続きを始める……という長丁場の作業だった。ようやく輪郭が繋がって全体を俯瞰すると、歪なドーナツのようにぽっかり穴が空いていて。
「……何してんだろ」
昼休みに肩を叩かれるのがお決まりになってきたころ、アヅキがぽつりと言った。
「え? 今?」
「もう三日くらいやってるけど、今までで一番何してんだろって感じの遊び。視界が真っ白だからかだんだんと虚空が見えてくる」
「急に五百ピースは大変だったんじゃないの」
ツキトジ先生は未だ嵌められていない破片の山を半笑いで眺める。
「すっかりあそこだけパズル用ブースになってるよ」
「一日くらいでできると思ったんだけど……」
「甘く見すぎ」
その辺で買ってきたおにぎりの袋を器用に開けて、先生は大きな一口で食べ始めた。
「ま、いいんじゃない。それで気が紛れるんだったら」
「……最近ダイナ来ないね」
「あ、紛れてない。アンタが来なくさせてるんだよ、わかってる?」
組みかけのパズルが床に広がっているところなんてダイナが見たら怒るだろうな。……ううん、なんだかんだ見逃してくれていた時もあった。気づいた時には勝手に片付けられていたけれど。
ちょっと考えてから、ツキトジ先生は一つ話をしてくれた。
「ダイナはさあ、保健室登校が決まったとき、本当~に世界滅亡みたいな顔してて」
「そんなに?」
顔面蒼白、生気が抜けたような。そんなダイナの顔なんてアヅキには想像もつかない。
「表情豊かだからね」先生は苦笑いした。「今だから言うけど、深刻さは自分でわかってたんだとは思うよ。認めたくなかっただけ。実際、何度も大人たちとの約束破って保健室を抜け出す問題児だった」
「センセ~ほとんど止めなかったじゃん」
「無駄なことは省く。これがお仕事上、とっても良いこととされています」
先生は自分の頭をこつんとやって、舌を出してみせた。
もっともらしいことを言っているけれど、ひょうきんな仕草に真面目さは表現されていない。
「なるほど。……参考にしよ」
「ダイナは焦燥に支配された。今の君よりもね。教室に辿り着けず戻ってくるたびに、失敗に心を打ち砕かれて。不甲斐ない自分を必要以上に責めて、追い詰められて。挫折に慣れて、心を閉ざして、乗り越えられないトラウマは悪化して檻となる。ダイナはPTSDを患い、眠れない夜が、日常になる」
淡々、淡々と絵本を読むような、沈んでいくのを実況するかのような、先生の声。
少し寒気がした。
「なんのハナシ?」
先生はアヅキを見ると、やっと小さく笑った。
「……そうならなかったのはアヅキの存在が大きかったと、私は思ってるよ」
「…………」
首を傾げるほど、何も察せないわけではなかった。けれどどう受け取って、どう感じたらいいのか。先生に何を言ったらいいのかも分からずにいた。
困っているうちにきゅるるとお腹が鳴って、「食べな」と先生が言った。
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