第8話 アリのトア


 入ってきた穴から僅かに光が射しこんでくる。けれど、その光はとても小さなものだ。ぼくのポケットからボワンと漏れている光のほうがずっと明るい。

『ここまでくれば、平気かな』

「あ、ありがとう」

『どういたしまして』

 アリの表情は見えない。たぶん、見えたとしてもよく分からない。でも、なんとなく安堵しているような雰囲気だ。

「ねぇ」

『なぁに?』

「なんで、のせてくれたの?」

『だって、食べられちゃいそうだと思って』

「何に?」

『さっきのやつ。普段は私たちを狙ってくるけれど、あなたみたいな生き物を食べているところを見たことがあるんだ。あ、そうだ。降りてもらってもいい?』

「ああ、うん」

 ぼくがアリから降りると、アリはぼくを置いて穴の奥へ消えた。それからしばらくすると、大きな欠片をふたつ持って戻ってきた。

『おなか、空いてない?』

「……え?」

 グゥゥゥ!

 それまでは少しも自覚していなかった。でも、聞かれた途端にぼくのお腹が空腹を知らせて鳴った。

『どうぞ。最近手に入れたの。上等なものだよ』

 差し出されたのは、宝石みたいな欠片だった。アリが美味しそうにそれを齧るから、ぼくもそれに齧りついてみる。甘い。ただひたすらに、甘みばかりを感じる。信じられない大きさだけれど、これはおそらく砂糖だろう。

 穴からコロコロ落ちてこの場所へ来てからというもの、何もかもが大きい。何もかもが大きい? もしかして、ぼくがびっくりするほどに小さくなってしまった可能性は?

『どうしたの? 口に合わない?』

「そんなことないよ。おいしい。……ねぇ」

『なーに?』

「ぼくは、この世界の生き物じゃないと思うんだ。この世界に見覚えとか、心当たりが全然ない。だから、帰りたいんだけど……。元の世界に戻る方法、知らない?」

『うーん……』

 アリは自分の分の欠片を食べ終えると、人間が難しいことを考えている時のように頭を傾けて、

『ねぇ、元の世界って、なに? わたしには、元の世界が分からないよ』

「えっと、えっとね――」

 ぼくは、アリに元居た世界の話をした。

 元居た世界でぼくは、とても大きかったこと。アリは指の先にちょこんと乗せられるくらい、小さな生き物だったこと。ぼくらを食べちゃうような生き物も世界には存在するけれど、そういう〝誰かに狙われている恐怖〟を感じながら生きてはいなかったこと。とにかく、思いつくままに話した。アリはその話を、うんうんと頷きながら聞いてくれた。

『なるほどね。話してくれたことは分かったよ。だけどなぁ』

 アリは、ちょっと泣きそうな顔をした。

『わたしには、分からないな。あなたみたいな生き物を見たことはあるけれど、ちらっと見るばかりだったし。食べられるところは見たことがあっても、どこか別の世界へ行くところを見たことなんてないからなぁ。もっとも、穴に入るところとかは見ているから、それがその、元の世界? につながっていた可能性も、あるにはあるんだろうけれど』

 すると突然、地面がぐらんぐらんと強く揺れ始めた! そして、入ってきた穴のほうから射しこんでいたはずの光が無くなった。トンネルは不自然に揺れる。大きな何かが迫ってくる。きっと、指だ! さっきのヤツは、ぼくらのことを諦めてはいなかったみたいだ!

『大丈夫。地中にトンネルを張り巡らせてある。出入口はあれひとつじゃない。違うところから逃げよう』

「う、うん」

『ほら、乗って』

「大丈夫。ぼく、歩けるよ」

『でも、あなたの足じゃどんなに速く走っても遅すぎるよ』

 ぼくは半ば強引にアリの背中にのせられた。再びアリが走り出す。奥へ、さらに奥へと進んでいくと、恐ろしい追手の気配はどんどんと遠のいていく。そして、ぼくの意識もなんだか遠のいていく。ポケットから光る石が飛び出すのに気づいたけれど、体をうまく動かせなかった。転げ落ちた光が遠のいていくのをぼんやりと眺めることしかできなかった。

『深く潜りすぎたかなぁ。よぅし、外へ向かおう』

 アリはよっこいしょ、と、ぼくのことを何度も背負いなおしながら、トンネルを上り始めた。

 すぅ、はぁ――。

 外の光を感じだしたころ、ぼくは大きく息を吸って吐いた。そうしたら、体中に空気が巡って、スッキリするような感覚がした。

「酸素だ」

『ん? ああ、なるほど。あなたは土の中が苦手なんだね』

 アリが足を止めて、眩しそうに空を見上げながら言った。

「ねぇ、そういえばさ、今更なんだけど」

『なーに?』

「きみには、自分の名前はあるの?」

 問うとアリは、

『名前? あるよ? トア。わたしは、アリのトア』

「トアか。いい名前だね」

『そう言うあなたは、なに? 名前は?』

「ええっと、ぼくは人間。名前はカブト」

『へぇ、カブトっていうんだ。レイさん、あなたと会ったら喜びそうだなぁ』

「レイさん?」

『レイさんは、カブトムシなんだ。レイさんはすごいんだよ! 体の色が虹色なんだ!』

「……えっ⁉」

 虹色の体のカブトムシ。それは、ぼくが探しているレインボーカブトのことじゃないか?

「ねぇ、トア! ぼく、レイさんに会ってみたい!」

 両手を合わせてお願いする。

『うーん。でも、レイさんが今どこにいるか、わたしには分からないんだ。それに、レイさんは、今のわたしには簡単にいけない場所にいるだろうし』

 ぼくの目には、幻のレインボーカブトが見えている。それが幻であれ、ぼくをレインボーカブトへ向かって突き進ませるには充分だった。

『ああ、でも』

「でも?」

『もしかしたら、クーに頼めばどうにかなるかもしれない! だから、クーのところまで連れて行ってあげる!』

 そう声を弾ませると、トアは嬉しそうに体を揺らしながら歩き出した。



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