第3話 二宮の変
<龐統編>が終わるとこまで書きたいので上げておく
陸遜が陸家を陸康から引き受けた理由がそもそも「盧江戦で陸家の主立った成人男子が戦死しているため、幼い陸遜が引き受けるしかなかった」なので、どれだけ主立った成人男子死んだねん……!! と思うのと同時につまりそれ以後、結婚などで外戚は増えて行ったりはしたと思うけど、事実上そこから本家とか本流の方で陸遜よりも年上の男は余程の老年以外は存在しなかったってことなんですよね。
死んでるから。
つまり年若い陸遜がある程度自分の意志で色んな事をしてるのも、そのあたりの事情が絡んでると私は思うんですよ。30代40代のいわゆる大人の男が、陸遜の十代の頃に陸家にいてくれたら、助言を得たり、その人の命令を受ける立場に陸遜も十分いられる歳だったんだけど、そもそもピンチヒッターで当主を引き受けてるから、陸遜って恐らくですが側にそういう「お父さん」「お兄さん」みたいな世代の人が蘇州系にはいなかったんだと思います。
うちの陸遜がなんとなくそういう年上の男に弱いのはそんなとこ理由。
そういう世代と話し合えることが陸家から外に出ない限りあんまり無かったんだと思う。
でも幼い頃からそういう状況だったので、陸遜は五月蠅い大人があんまりいないなかでも自分を戒めてちゃんと勉強とかやってたってことだからとてもとても偉いと思う
一人で何でもできる人なんですよね……。陸遜。いや勿論軍師としても若年としても、多くの人の協力と支えを受けて生きてることは分かるけど、いわゆる「悩んだり」することに対しては一人で考えて答えを出して来るタイプだと思う。
ちなみにこの時代「蘇州」という呼び名はまだありません。
陸遜は今でいう「蘇州」出身の人ですが(蘇州は水の都なんだってよ~✨陸遜に似合うなあ🥰)この時代そのあたりの地域は「呉」と呼ばれていました。
国名と一緒で「呉出身」って書くとじゃあ他の人間は呉出身じゃないのかなどと人によっては「??」って混乱する恐れがあるので敢えて「蘇州」を使ってます。
ちなみに甘寧兄貴はうちではこんな面倒見のいい兄貴として書いていますが、実際の私のイメージはもっと年上で怖い人なイメージだしそういう感じの甘寧も好きです✨
水賊出身だからね 史実でも「結構すぐ人を殺す」ってはっきり書いてある😇
だけど人を見抜く才があり、あけっぴろげな性格で、惜しみなく優秀な人材を取り立てて育てたりもしたので非常に人に慕われたらしい。
要するに感情や気性は激しいけど、基本的には任侠の人なんですよね。
魏に「張遼」っていうものすご強い武将がいるんですが、
孫権は「魏に張遼あるなら 呉に甘寧あり」とその強さを讃えたと言われています。
私甘寧の経歴で一番好きなとこ「十代の頃から気概があり若者たちを従えて徒党を組み、彼らの頭領になり、人に出会うとそれが地方の長官でも自分を盛大に迎えさせ、そうしなかった者は容赦なく襲って財を奪った。また自分のいる長官の領内で問題が起きると勝手に取り締まって制裁なども行っていた。そのような暮らしが20年ほど続いたが、ある時を境に乱暴をやめる」っていう説明文の「ある時を境に乱暴をやめる」って部分です。ある時何があったんや兄貴……😇✨
この人若い頃一回官職にもついていたみたいなんですよ。
でもそれは余程面白くなかったんでしょうね、一瞬にしてやめてます
甘寧すっごい感情激しい面と、すっごい冷静な面持ってる男なんですよね
こういうとこ見ると、刻一刻と状況が変わる戦場とかでは確かに無茶苦茶判断頼りになった武将だったんだろうなと思う。
うちの陸遜が甘寧と惹かれ合ってるのは経歴がほんとに真逆なタイプだからです
甘寧嫌なことあると無理してそれを続けたりしないんですよ
作中にも書いたけど人付き合いもそうで「嫌いな奴とは別に付き合わない」タイプなんです。
でも陸遜は逆に十代の頃から陸家を引き受けて、彼らを投げ出すことが出来なかったから、甘寧のように自らの強い意志で道を切り拓く生き方なんか想像出来ず、憧れる面もあるだろうなという思いと、
でも甘寧は甘寧で、一度引き受けた人間のことは何があっても辛抱強く見捨てたりしない陸遜の心の強いとこ、気に入ってそうだって思うとこあるのですよね
実際どうだったんでしょうね
廊下で会った時甘寧と陸遜って実際どんな感じだったんだろー。知りたい……。✨
陸遜は名家の人だけど、名前からして偉ぶるようなタイプではないので、周瑜と呂蒙が孫権に甘寧を推した以上絶対水賊出身だろうと彼に敬意示してたと思うんですよ。
甘寧そういう自分を重んじてくれる相手には優しいとこあるから 廊下で会っても甘寧に父親殺されてるから当然っちゃ当然なんだけど淩統君のように出会い頭に「ああ!?💢💢」って胸倉掴み合うような空気にはならなかったと思うんですよね
呂蒙の後任として陸遜江陵に着任していますし、呂蒙と陸遜は信頼関係があったと思うんですが、その激しい気性から人と揉めることもあった甘寧を何かと庇護してくれたのが呂蒙と周瑜だったみたいです
なので、呂蒙と甘寧が仲いいなら甘寧と陸遜も案外どこかで会って、一緒に飲もうみたいに飲んでたこともあるんじゃないかなって思う。
ちなみにですがこの温和な呂蒙さんが、
周瑜から江陵を託された魯粛の後、江陵を引き継ぎ、対峙したのが三国志でも最も有名な猛将の一人、蜀の関羽になります。
関羽は 蜀の宗主である劉備の義兄弟の一人。(もう一人は張飛)
黄巾の乱の時代からずっと流浪の劉備を側で支えて来た重鎮の一人であり、その卓越した武芸と、黄金のような揺るぎない忠誠心で、曹操にさえ「自分の許に欲しい人材」と言わしめた人です。
ただ関羽は逆に言うとその黄金のような揺るぎない忠誠心は劉備にしか向いてないので、曹操からすると劉備の側で働く関羽は「いいなー!✨」って見えても、曹操の側に連れて来た関羽をいいなー!と思ったかどうかは謎です。私は多分いいなー!とは思わなかったのではないかと思いますが、そこは曹操様なにか予感があったのか一度は自分のとこに身を寄せた関羽が去ると、あとは一切追おうとしませんでした。さすがですね
その関羽を討ち取ったのが我らの呂蒙さんです
三国志演義、という史実ではなく物語の方の三国志では、三国志演義は劉備を主人公にした極めて蜀寄りの話ですので、関羽は英雄的に描かれており、その関羽を殺したのが呂蒙であるため、呂蒙は病没するため都合よく関羽の亡霊に呪い殺される展開になっています。
呂蒙さん好きとしてはこの辺りの下りもちょっと腹立たしいのでうちではこのあたりもいずれ修正をしてやりたいなと企んでいます
呂蒙は劉備の大きな支えになるという意味で、非常に呉にとって脅威となる関羽をついに討ち取りました。
その後病を重くして、この世を去ります。享年42。
前任の魯粛は46歳。更にその前の周瑜は36歳で亡くなっています。
またしても呉は優秀な人材を若くして失うことになりました。
と、事実をまとめるとそうなのですが、
ここで一つ怖い話を。
私は陸遜の経歴を見ているとどうも、二宮の変で孫権が陸遜に詰問状を送り付ける時に、その時のことだけで行動してない感じがするのです。
まあ陸遜の死に関しても「葬儀の記述が無いんだが……丞相なのにもしかしてやってないのか?」という恐ろしい疑問が首をもたげるんですが、陸遜は非常に呉に対して若い頃は軍事、軍事から退いては国政、と大きな貢献をしていて、さして大きな失敗もしていないため、孫権が誰しも分かるその貢献に対して報いている為、表面上は二人は良好な関係に見えるのですが、
それは逆に「この働きに報いなかったら馬鹿じゃないの?」って思うくらいのことに対して孫権が常識として褒美を出しているだけであって、特筆して陸遜を孫権が取り立てたわけじゃないんですよ。
陸遜が表に出て来たのも主立った上記の人達が亡くなってしまったからであって、生きていたら恐らく夷陵でも起用などはされなかったと思ってます。
孫権は父親を亡くしてる淩統や、学友だという朱然とも、特別な庇護関係にあるなと思うエピソードがあるんですが、
陸遜特にないんですよ。
んで陸遜実は、孫権の命により、孫策の娘さんを奥さんにもらっています。
つまり孫家とは親戚関係なんですね。孫権からすると、「お兄さんの娘」つまり姪の婿なわけです。
その人を、「反逆の意志あるやろ」と疑ってるので、孫策に対しての敬意もない行為なんですよね孫権の二宮の変での行動って。
私は元々孫権ってそんな陸遜のことを好きじゃないというか、特別信頼してる感じがしないんですよ。
その理由がなんでかな、っていうのをずーーーーーーーっと考えて来たんですけど。
……もしかしたら、孫権にとって父親の孫堅も急な暗殺で殺されているから享年37歳。
兄の孫策も26歳の時に暗殺されてます。
周瑜が36、
魯粛が46、
呂蒙42
要するに俗っぽく言うと孫権にとって「いい人はみんな早死にしてる」んですね。
死者に対しての、敬愛の念が孫権は多分すごい強かった気がするんです。
その反動として、
陸遜は63歳まで生きてるんですが、
なんとなく孫権の心の中で「なんでこいつはこんなに長生きしてるんだろう。素晴らしい人たちはみんな早くに亡くなっているのに」的な疑念じゃないけど、多分孫権自身自覚すらない、そういった心の奥底にある暗黒の塊のような思いが常にあったんじゃないかなって思うんですよ。
思うくらい、二宮の変では一気に「ずっとお前が嫌いだったんだ俺は」みたいな孫権の陸遜への嫌悪が吹き出した感じ、私はするのです。
大好きな人たちが早くに亡くなってしまったから、長生きしている人間が疎ましく思えてくるってこの気持ち、理解出来る人いますかね?
私は理解は出来ないけど、考え方としてはあるかもしれないなっていうのは分かるんですよ。
ちっとも理解出来ないけどな。
私ならそんな中でも自分の側にずっと生きて力になってくれる人どんどん大切にしていくだけだと思うしむしろ「貴方は生きてくれてるのが嬉しい!✨」ってなるはずなので、全く理解はできないんですが、
ただ孫権が陸遜をもし信頼しないんだとしたら理由それくらいしかねーだろっていうくらい陸遜は立派な人なので、私はどうもそういう気持ちが孫権にあったんじゃねえかなって読んでるんですよ。
でもそうだとしたら本当に嫌な卑屈な考え方をした野郎だなって思うんですがね
でもなあ。陸遜が丞相になるタイミングもおかしいんだよな……。前任の顧雍が76歳で在職したまま亡くなってるんすよ。孫権が本当に陸遜信頼してたらもうちょっと早く顧雍先生から引き継がせてそんな死ぬまでやらせてないと思うねん。76歳やぞ。76歳って現代の政治家だと思っても高齢やん。
まあ夷陵の時はサプライズ起用だった陸遜君も
この時はもはや名実ともに呉の重鎮ですからね
恐らく街に出たらああ何度も呉を救って下さった陸遜将軍だ陸遜将軍だ言われて無茶苦茶民とかからも支持されてたと思うし、丞相になっても全然おかしくない状態だったんですよ。
顧雍が76歳という高齢まで丞相をしている事実に、
逆にその裏にある孫権の「陸遜には絶対丞相をさせたくねえ」という意志のようなものを私は感じ取るのだ
だから、陸遜が丞相になった時も全然孫権が信頼してそうさせたって印象がない。
もう嫌々って感じ。しかたねーな~~~こいつしかいねえしよ感がすごいねん。
だからそういう意味でも、二宮の変で丞相の陸遜が「長子継承は重んじませんと」と正論を言って来たことに、二重の意味で孫権は理不尽に腹を立てて、今まで陸遜が優秀過ぎて言う機会も無かった罵詈雑言が吹き出して来て詰問状になってるんじゃないかと思うんですよ……。
それしかお前悪口言うタイミングなかったんやろっていう。
顧雍の亡くなった状況と、その後起きる二宮の変を照らし合わせると、私は孫権は潜在的に陸遜を非常に信頼していなかった、という気がするんですよ。
まあもうここまで書いちゃったからどうせなんで書くけど、上記さっきサラっと書いた「朱然」という人がいます。孫権の学友で、孫権、陸遜、朱然は大体同年という感じです。朱然も武官ですが長生きをしましたが、上記の見立てが事実なら、孫権が朱然を大切にしたのはやはり学友で元々親しい友達だったからなんですよ。
晩年の孫権は若い時冷静だったのがどこへ吹っ飛んだのか、ほぼ感情で動いてるので、朱然と陸遜の扱いの違いが尚更孫権がどんな理屈を立てても「要するに感情で陸遜が嫌いだったんだろうなコイツ……」と思わせる何かがあります
まあとにかく「朱然」は孫権と非常に若い頃から親しいんですよ。友人も若干入ってるくらいのものがあり、信頼関係や絆も強かったんですが……。
実はこの「朱然」。何故かこの頃呉の重鎮だったはずなのに二宮の変の朱然の動向が全く記録に残っていません。まあ記録に残ってねえってことは関わっておらず、沈黙してたってことだと思うんですが……。(私としてはなに火の粉掛からねえように黙って隠れてんだ朱然出て来いよという気持ちはあるものの)
朱然は二宮の変での動向は不明なんですが、朱然の息子の「朱績」君が、孫和派にいます。この時「朱績」君は大都督の位にあるので、大都督は軍の総司令官みたいな位なので全然ぺーぺーとかではありません。実力者です。
彼が、孫和派にいるんですよ。
孫和は太子で兄の方。
孫覇が弟の方です。
孫権は慣例通り兄の孫和を最初は太子にしたのに、いわゆる側室たちの口車に乗せられて、孫覇を支持しようとしたため、大きな混乱を招いた。
つまり孫覇が孫権の支持を受けた弟の方。
当時は「父と子の関係」とか儒教が重んじられる背景なので、とても強い結びつきがあります。
それを考えると、どう考えても孫権と絆の深い朱然の息子なので「朱績」は孫覇派にいないとおかしいんじゃないかな……? って少し思う。
ちなみに孫和、兄の方は太子に立てられている為、勿論陸遜が支持していたのはこちらの方。
こちらの方を支持したというよりも、陸遜が重んじたのは「長子継承」の部分ではありますがね
とにかく、「朱績」が陸遜側に属してるんですよ。
これは結構私からすると不思議な感じがする動きなんですが……。
しかしながら。
そもそも、孫権が100%考え方としては「可愛いからこっちがいい」とか言って王位を弟にやろうとしてること自体が誰の目にも誤ってるので、むしろ常識人が孫和を支持してるわけです。
孫覇を支持してるのはそのことによって自分たちが利権を得るだけの連中なので、普通の忠臣なら孫和を支持するはずなんですよ。
孫権のたわけが孫覇を支持してるので「忠誠ってなに?😇」みたいになっちゃってますが、孫和を支持するのが要するに呉の忠臣。
孫覇を支持してるのが単なる孫権のイエスマンか、利権が欲しい奴です。
ここで思うのが……。
朱然は、生粋の武官なんですよ。
陸遜も国政に入るまではそうだったので、実は朱然と陸遜って現代で言うと会社で手柄を競い合う生粋のライバル関係みたいなところがあってですね、戦功的には陸遜が勝っているわけで、朱然とはあんま親しい雰囲気伝わって来ないんですけど、でも、別に不仲とかではなく――要するに正真正銘のライバルだったのかなと。
陸遜は別に孫権に任された仕事をやるだけだの人なので朱然に激しい対抗心とか全くない感じですが、朱然は気も強そうなのであいつだけには負けねえ的なものは持ってそうです
ただ……周瑜、魯粛、呂蒙と上官を失いながら、呉の為に戦場で共に戦って来た事実だけはある。
私は朱然こそ、若い頃はそんな陸遜好きじゃなかったけど段々「あいつは名家出身だけど甘えてない。凄い奴だ」みたいに認めるようになってたんじゃないかなと。
ちなみに朱然の生まれ年が182年、
陸遜が183年、
孫権が182年です。
つまり朱然と孫権は本当に同年で、陸遜も一つ年下なだけ。
この三人にはそういう背景がある。
つまり個人的に親しかったかどうかは知りませんが朱然と陸遜はほぼ同い年の呉の忠臣としてずーーーーーーーーーーーーっと戦場で共に戦って来た仲間なわけです。
そういう繋がりは口に出さずとも、深いと私は思っています。
なので孫権は朱然は同年で俺の親友だしと思っていたかもしれませんが、実際には朱然と陸遜も60歳くらいになるまでずっと一緒に呉を支えて生きて来た同種なんですよ。
この二人だけが持ってた、孫権の手の及ばない、二人だけの共感があったんじゃないかと私は思います。
なので、二宮の変で全く呉の重鎮の朱然の動きが記録されておらず、しかし息子の「朱績」が陸遜の庇護した「孫和派」にいるという事実を読み解くと、
朱然は孫権の腹心なので、彼が間違ったことをしても、自分だけは孫権を支えて側にいてやらなければならない、孫権だけは裏切れないなどと思っても、二宮の変で孫権に付くのは、道義に悖るわけです。実際にそうなりますが、この二宮の変で起きたことは、孫呉の滅亡する理由に直結しています。
これが孫呉を滅ぼす理由になっていきます。
朱然と陸遜は、孫呉の建国、平定に生涯を捧げて尽力した武将です。
周瑜、魯粛、呂蒙もそう。
彼らの生き様も、死に様も、全て呉に捧げられたもの。
呉の為に死んで行った仲間を朱然と陸遜は同じ場所で見て来た者同士です。
そういう非常に強力な繋がりがこの二人にはある。
孫権が二宮の変でしたことは、周瑜、魯粛、呂蒙の犠牲すら軽んじるものだと私は思っているので、朱然にはいくら孫権への忠義があってもそれは出来なかったんですよ。生粋の武将だからこそ、動けなかった。
そうでなければ、朱然の二宮の変の動向は「孫覇派」か「孫権を支持した」でいいじゃないですか。なんで「不明」なんだよ。動向不明ってことは孫権の動きもある意味支持していないんですよ。
朱然の二宮の変での動向不明はそれくらい、おかしい。
本当に沈黙していたか、記録を意図的にされなかったんでしょうね。
それは孫権を支持したということは呉の忠臣ではないことにある意味関わるからです。朱然は呉の重鎮なので、そんな国が二つに分かれるような事態に「なにもしない」などということが許される立場ではないんですよ。
あくまでも私の予想ですが、孫権の側にはいたけど、いただけなんだと思う。
政治的な発言はせず、なんとなく孫権がこれ以上誤らないよう見ていたのではないかと。
あと可能性があるのが、孫権の側にいて、これ以上孫覇側の人間、側室を含めてですが孫権を誑かすようなことを言った時にはそいつを殺そうとしてたんじゃないかなとかも思う。
だから孫権の側で沈黙するしかない自分の代わりに、息子の「朱績」が陸遜の側に行くことは、許して容認したのではないかと。容認したというか……どうなんでしょうな この時の朱然・朱績親子の何かどんな会話が成されていたのかとかも本当に気になります。
でも私は、共に戦った人間の共感って凄いものがあると思うので、
朱然が 陸遜を道義に基づいて支持した息子を「許可した」か――、
それとも、動けない自分の代わりに、お前が陸遜の側に行って支えてやってくれと陸遜に暗に「お前を支持している」ということを息子を使い伝えたんじゃないかなと……。そんな風に思ってる……。
だから二宮の変を書くとしたら、孫権をどのように描くかはまだ形になってないですが、これだけは書きたいって思ってるのがあって、
私は二宮の変で、陸遜は最終的に騒ぎを収束させるために、誰にも疑念や火の粉を降り掛からせないためにも遺書とかもきちんと用意して準備を整えて自刃をしたんじゃないかなと考えているのですが、
その知らせを聞いた時の朱然は、陸遜を死なせたことを心の底から彼に詫びて、一人で陸遜の為に泣いてくれたんじゃないかなとそんな風には思っていてそれはぜひいつか書きたいと思ってる部分……。
陸遜が自刃したと聞いた時の朱然の気持ちを考えると……すごく胸が苦しくなるものがある。
ちなみに陸遜が亡くなるとほぼ孫呉の大いなる功臣は朱然だけになります
この事実からも、陸遜をそんな理由で死なせた孫権の愚かさが浮き彫りになりますが、最後の功臣となった朱然を益々孫権は大事にしますが、陸遜の死後ほどなく朱然は病に倒れ長く患っていましたが、陸遜が亡くなった245年から四年後、249年に亡くなりました。
孫権は例によって心を込めて盛大な葬儀を行ったそうです。
嘘じゃなく呉の主立った高官で「孫権が盛大な葬儀を行った」という記述が無いの陸遜だけやねん 人間の愚行の恐ろしさよ……。
歴史上の人物の中で孫権のケツだけは蹴り上げてやりたい。
これほどお前は絶対いい死に方をしない奴だと思う奴はいない。
孫権は71歳 252年まで生きました。
みんな孫権より先に死んでます。
ほとんどが運命で亡くなってるけど、
陸遜だけが孫権の悪意で死に追いやられてますね
そのきっかけが「呉の忠臣としてやらねばならないことをやったため」という理由である所が、私が無性に、陸遜に惹かれる部分なのかもしれません。
この世にはやりたくないことを、誰かの為に引き受けてやってる人がいるのです
陸遜は本当に常に本命じゃないねん
誰かのピンチヒッターやねん
最初も陸績が年下だったから彼が大人になるまで代理として家長を務めただけだしな
江陵の起用も元々呂蒙のあとは朱然が任される予定だったけど陸遜になった(多分関羽死亡後の江陵の動きが目まぐるしすぎて交代する余裕とか無かったんだろうと推察)呂蒙は朱然を推してたみたいですが、私はこの起用も要するに朱然と陸遜のパーソナルな部分を見越しての起用だと思ってる 自分の死後朱然と陸遜に引き継いでもらわなければならんのは分かってたが、陸遜の補佐官としての資質は呂蒙は見極めて信頼していたのではないかと。
つまり陸遜は朱然の優秀な補佐が出来るけど、朱然に陸遜の優秀な補佐とかは出来んと見たのだと思う。適材適所で、朱然を総責任者として置いて、陸遜にその補佐をさせたかったんじゃないかなと。
顧雍先生が亡くなった時もピンチヒッターの丞相だしな……。
ずっと陸遜ってそうやねん 誰かの代わりなんや……。
ただ陸遜という人が無性に私が好きなのは、そういう役回りが多いにもかかわらず人を妬んだり、憎んだり、私情に走ったりせず、「任された仕事をきちんと責任もってやる」。そういう非常に卑屈になっても仕方ないような背景がありながらもそういうところ全くなく、真っすぐで快活な、清廉な印象を与えてくる所がとても好きですね。
陸遜からするとピンチヒッターだろうがなんだろうが、
誰かに必要とされてそれに報いることが出来ることは、
とても嬉しいことだったのかもしれないなあ……。
そういう波瀾万丈な一生のわりにどこか何故か大らかなところ大好き……✨
三国志は楽しいよー ぜひ皆さんも一度読んでなんかこの人気になるなあみたいな人見つけて拘って調べてみたらいいよ
今あんま出てきてないけど「魏」にも大変魅力的な人たちいますしね
(荀家の二人大好き🥰 そして郭嘉も大好き)
それぞれに好きな登場人物見つけて楽しんで下さい
それが三国志の楽しみ方ですので
というかカクヨムの近況ノートすげえな全然書けるじゃない
10000字有限って聞いたぞ 今日は10000字さすがに超えてる気がするんだが越えてねえか すげえな!! いっぱい書けるぞ!!!✨
なんなら小話書けるな!!!✨
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