第1章 誘拐犯 on the stage

第1章ー① 司法取引

「先ほどは許可なく部屋に押し入り、大変申し訳ありませんでした。」


母が出したお茶に口をつけるよりも前に、目の前の刑事さん―神崎さんは深く頭を下げる。拳二つ分ほど開けた膝の上に手を預け、床と平行になるまで腰を折った神崎さんを私は黙って向かいで見ているしかなかった。私の隣に座る母は眉間にシワを寄せたままじっとその頭を見下ろしていたが、しばらくして神崎さんは頭を上げる。さっきは状況が状況だったせいかとても怖い人に見えたけれど、いざ改めて向き合うと父よりも小柄で驚いた。でも、感情が読めない切れ長の目がこっちを見つめてくるのは慣れない。ガラス玉のような目に映されているだけで体に霜が降るようで、指先一つも動かせなかった。


「しかし、急を要する用件であるということだけはご承知ください。事件の捜査にご協力いただけるのかどうか。今日中にお返事をいただくよう、上から指示が出ています。」

「だからといってあんな乱暴な……娘はあの事件以来、ずっと外に出られていないんですよ?」

「配慮に欠けていたことは認めます。ですがやはり、凛さんご本人も同席した上で話を進めるべきです。お母様が何もかも決めるような年齢でもないでしょう。」

「そうかもしれませんが……! まだ心が回復しきってない娘にそこまで求める気になんてなれません。」


さっきから唇が震えて一言も話し出せない私の頭上で、母と神崎さんが言葉の応酬を続ける。私を庇う母の声が胸を突くようだった。何も言えてない私に代わって、母が戦っている。神崎さんの言葉が余計、その事実を突きつけていた。


「もう、帰ってください。こんなこと言いたくはありませんが、警察の方とはこれ以上関わりたくないんです。恐ろしい思いをした娘は処罰されて、娘を襲った犯人は何のお咎めもなし。それで今さら娘の超能力だけ求めてくるなんて、あまりにも虫が良すぎるとは思わないんですか?」


指の隙間から覗くパジャマのシワが深くなる。目の前の刑事さんは、私が起こした事件を担当した刑事さんじゃない。だから母がこんなことを面と向かって言うのは、八つ当たりにすぎないのだろう。頭ではわかっていても、心はホッとしていた。世界が敵に回っても、母は味方でいてくれる。


「お願いです。娘のためにも、もう帰ってください。」


そう実感できるのに、なぜか胸の奥底は冷えていた。


「求めている……確かにそうかもしれません。ですがその『求められている』という実感こそ、今の凛さんには必要なのではないでしょうか。」


淡々とした事務的な口調が、一瞬だけ崩れた気がした。スーツを整える布ずれの音がダイニングの空気を塗り替えていく。


「凛さん、単刀直入に伺います。ご自身の超能力についてどう思っていますか?」


いつの間にか神崎さんの言葉の行き先は母から私へと変わっていた。突然のことに体が強張って、ばね仕掛けが作動したんじゃないかと思う勢いで頭が持ち上がる。開けた視界の中で、神崎さんの恐ろしいほど澄んだ瞳と目が合った。


「え……いや、その、どうって急に、聞かれても……」

「では聞き方を変えます。ご自身の超能力は嫌いですか?」


神崎さんが尋ねた瞬間、真横の椅子がガタリと音を立てる。神崎さんのあまりに直球な質問に母の眉間にはシワが寄っていた。


「その質問は、今しなければいけないものなんですか? これ以上娘を追い詰めるようなことをされるなら、警察のもっと上の方に連絡しますよ。」


半ば脅しのように神崎さんに詰め寄り、今にも追い出しそうな勢いの母。それでも母の地を這うような声と剣幕にも怯えず、神崎さんは私の正面から動こうとはしなかった。姿勢を一ミリも崩すことなく、ただただ私の返答を待っている。それなのに、その眼差しはまるで私に何も期待していないようだった。


『矢車さんのところの子、超能力者なんですって。それも二種類超能力を持ってるっていう、二級の。』

『らしいわよね。二級の超能力者って一級の子と比べて力が暴発しやすいって聞くし、正直言うとあんまりうちの子と遊んでほしくないわ。』

『凛ちゃん本人は良い子なんだけど、なんというか……ね。』


頑張ってきた。


『超能力二つ持ってる子、私初めて会ったかも。小中では見たことなかったよ。』

『え、これも持ってくれるの? 念動力ってすごいね。』

『物の記憶が見えるならさ、テストの問題用紙とかから答えってわかったりしないの?』


危険な子だって、迷惑な子だって思われないように。


『世間が何を言っても、お母さんだけは凛の味方だからね。』

『無理しなくていいの。少しずつ、戻していこう?』

『大丈夫。きっとまた、外に出られる日が来るわ。』


それなのに私のこの力は結局、誰かを苦しめても笑顔にはしてくれない。


「嫌い。大っ嫌い。」


口をついて出たのは、幼児のような拒絶の言葉だった。こんな力がなければ、何も我慢する必要なんてなかった。誰かを傷つけるんじゃないかって怯えて暮らすこともなかった。危ない人だって思われて責められることもなかった。


「こんな力、いらない。いらない。消えればいい!」


腹の底から濁流のように溢れた声がフローリングにこだまする。叫びと共に抑え込んでいた力が、胸の奥から顔を出す。その時、ひとりでに神崎さんに出されていたマグカップが破裂するように割れた。飛び散った破片を避けるように神崎さんが後ずさる。焼かれたように熱くなった眼球の奥から涙が溢れ出して、気づけば手の甲へ滴り落ちていた。自分を支えきれなくなった背骨が自然と曲がって頭が落ちていく。目元を拭った手袋とパジャマの袖が肌に貼り付いて気持ち悪い。


「凛!」


神崎さんに詰め寄っていたはずの母が私の元に駆け寄り、背中をさする。その手つきはまるでガラスを扱うように優しくて、何かに怯えているようだった。


「ほら、落ち着いて。ゆっくり深呼吸して。お母さん、隣にいるから。ね?」


母になだめられてどうにか呼吸が元に戻っていく。だけど、ほうじ茶が零れて陶器の破片が散って、惨憺たる状況のテーブルを見てまた涙が込み上げてくる。止められなかった。危うく母や神崎さんに怪我を負わせてしまうかもしれなかった。やっぱり私の力は誰かを、そして私自身を苦しめる。


「こんな力……なければよかったのに。」


心から零れた言葉に、今度は母が目を伏せた。母が父に向けて懺悔するように泣きついているのを見たことがある。『どうして普通の子に産んであげられなかったんだろう』と嗚咽混じりに漏らす母を、父は必死に慰めていた。この言葉がどれほど母を苦しめるかくらい、わかってる。それでも臨界点まで達していた心の叫びを止めることが、私にはできなかった。


「超能力者の九十九パーセントは出生時、またはごく幼い時期に超能力を発現させます。」


床に散ったマグカップの破片を拾い集めながら、神崎さんが呟く。いつの間に席を立っていたのか神崎さんは屈んで白い陶片を一つずつ、指先で摘まみ上げていた。


「そのため超能力者にとって超能力は自身の一部であり、アイデンティティの重要な構成要素です。自身の一部である超能力を愛せるか愛せないか、それが超能力者本人の自己肯定感に直結すると言っても過言ではありません。」


床の破片を集め終えた神崎さんはすくと立ち上がると、その破片をテーブルのマグカップの残骸と合わせる。まるでパズルでも解くように、その破片を元あった位置へと戻し始めた。


「一度崩れた自己肯定感を再建するというのは容易ではないでしょう。その過程で今以上に傷を負うことだってあるかもしれません。」


それでも、と神崎さんは断面の合う破片同士を丁寧に組み上げていく。


「凛さんにはまだ未来があります。その未来のために、自分の力の価値を見つけ直すというのは単なる社会復帰の手助け以上の価値があると私は思います。自分の力が求められているという事実はそれだけで、生きる理由になりますから。」


壊れていたはずのマグカップはつぎはぎではあるものの、元の形を取り戻していた。稲妻が走ったような表面で、花の模様が痛々しく咲き誇っている。神崎さんは数秒そのマグカップを見下ろした後で、私の方へと向き直った。


「凛さん。今日私があなたに持ちかけようとしたのは、とある誘拐事件の捜査協力です。あなたの持つ超能力が事件解決の突破口になりうると、警察は判断しています。もちろんタダでとは言いません。協力していただけた場合、要監視超能力者リストの登録解除をお約束します。」


提案された条件に息を呑んだ。要監視超能力者リストからの削除。これが叶えば国が課す超能力の制御訓練や講習の義務から解放される。何より、公務員への就職、看護師への道がまた開けるかもしれない。


「それは……本当ですか?」

「はい。例外的ではありますが、いわゆる司法取引というものです。」

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