第1章ー② 手の平

「司法取引……ドラマとかでよく見る、あの?」

「そうです。本来は判決前に行われるのですが、今回は特例だそうで。私から言うのもなんですが、こんな機会はもう二度と訪れないと言ってもいいでしょう。」


そう言って神崎さんは私に手を差し伸べた。男の人らしい堀が深くて硬そうな手。この手を取れば私は無理矢理にでも外に連れ出される。あの時以上の傷を負うかもしれない外に。


「時間はありません。今ここで承諾いただけなければ、この話はなかったことになります。」

「待ってください。そんな焦らせるような言い方はないんじゃないですか? 娘のこれからにとってとても重大な決断なのに時間も取れないなんて……それに先ほども言いましたが、娘はまだ外に出られるような状態じゃないんです。」


ああほら、ママもこう言ってる。


「一年間、傷ついたこの子をずっと側で見てきました。世間から責められて、学校に行けなくなって、看護師になる夢も絶たれて……こんなに辛い思いをさせるなら、私が代わってあげたいくらいなんです。」


ありがとう、ママ。



「こんな〝人を傷つける力〟、娘から取り除いてあげられたらどれだけいいか……」



母の喉を振り絞るような声に、世界が静かになった。人を、傷つける力。ふと自分の両手に目を落とす。物心ついた頃には手袋で覆い隠された両手。念動力よりも遅く発現したサイコメトリーの誤発動を予防するための手袋。最後に誰かの手を素手で取ったのは、いつだっただろう。


『凛ちゃん、そんなに怖がらないで。』


真夜中の暗い病室。まだ超能力の詳細がわからなくて主治医の先生も触れるのを躊躇っていた私の手を、その人は迷わず握ってくれた。


『超能力はたくさんの人を助けられるかもしれない、素敵な贈り物なんだから。』


暗がりの中で思い出せるのは、綺麗に伸ばした長い髪と白いナースウェア。ナースコールも押していないのに駆け付けてくれたあの人は、そうやって私が眠りにつくまで手を握り続けてくれた。その手の平がまるで木漏れ日のように温かくて、柔らかくて、ずっとあの人みたいな大人になりたかった。助けを求める誰かにそっと手を差し伸べて、心も一緒に救えるような大人に。


「……わかりました。お母様がそこまでおっしゃるなら、私もこれ以上は何も言いません。」


神崎さんの手が音もなく引っ込められる。その目は一瞬母ではなく私を向いたが、幻滅したようにすぐ逸らされた。そのまま神崎さんは私と母に深く頭を下げる。


「突然お伺いしてご迷惑をお掛けしました。私はこれにて失礼させていただき」

「待って!」


手は無意識のうちに神崎さんを追っていた。母と神崎さんは声を張り上げた私の方へと一斉に振り返り、目を大きく見開く。続ける言葉も何も考えていなかった。早鳴りする心臓の音が耳に響く。足先からさっと血の気が引いていく。


それでも、それでも言わなきゃ。今言わなきゃ私は、何も変えられない。何も変わりやしない!


「捜査協力、します! させてください!」


神崎さんのジャケットの裾を掴み、見開かれた目を見上げる。突然のことで驚きが隠せないのか、感情を見せなかった瞳が一瞬揺れた。その直後、母が私の肩を掴んで体を起こし上げる。


「り、凛? 自分が何を言ってるのかわかってるの? 捜査に協力するってことは、また超能力を使うのよ? いくら見返りがあるからって、そんな無理をする必要今は……」

「今じゃなきゃダメなの!」


一年間、母の側で待ってきた。時間が傷を癒やして、絶たれた夢の代わりを見つけて、少しずつでも普通の生活に戻れるようになる日を。でもその日は結局、一年待っても来なかった。時間が解決してくれるなんて嘘っぱちだった。時間なんて流れていくだけで何もしてくれない。私が動かないと、何も始まらない。


「ずっと苦しかったの。私のせいでママに迷惑かけてるって。ママはいつも急がなくても大丈夫だって言ってくれたけど、本当は大丈夫じゃないってどこかで思ってた。私の問題なのに私が頑張らなくて、ママが頑張るなんておかしいって思ってた。」


俯くと零れてしまいそうな涙を、前を向いて堪える。


「わかってたのにずっと甘えてたの。考えない方が楽だから。自分は被害者だからって言い聞かせて、ずっと見ないようにしてた。」


そうやってうずくまってるうちに、なりたかったものも見えなくなった。


「私、犯罪者で終わりたくない。私も人のためになれるんだって胸を張って生きられるようになりたい。お願いママ。こんな機会、きっと二度と来ない。私の力も人の役に立てるんだって、証明したいの!」


出しきった感情に、すっと胸が軽くなる。母は相変わらず私を丸くした目で見つめていた。ただでさえ迷惑をかけているのに、その上わがままを言ってしまったかもしれない。さっきまで感じていた一種の達成感がその恐怖に一瞬で塗りつぶされていく。


「凛」


私の両肩に手を添えながら、母はたった一度だけ発した。力の抜けた優しい手の感触が、肩から私の緊張を解していく。母は何か言いたげに唇を震わせていた。それでも薄い吐息以外のものはそこから何も出てこず、言葉のない静寂だけが私と母の間に流れる。母の顔が数秒私から背けられたと思えば、歪む。そのまましばらく母は目を瞑っていた。


「ママ……?」


心配になってつい呼びかけると、母の腕が私の体を抱き締める。思い出せる限りでも一等力強い抱合に椅子からよろめきかけたが、母の胴体がそれを支えてくれていた。


「ごめんね。」


母はそれ以上、何も言わなかった。ただひとしきり私を抱き締めた後、名残惜しそうに私の体から手が離れていく。その頃には母は真っ直ぐと立っていて、神崎さんの方へと向き直っていた。


「先ほどは取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。司法取引について今一度詳しくお話し願えますでしょうか、神崎さん。」


私と母のやり取りをずっと無言で見守っていた神崎さんは、その瞬間重く頷いた。


「ええ。前向きに聞いていただけるようで、私としても何よりです。」


そう言って神崎さんは椅子に座り直す。母も席に着き、改めて聞いた司法取引の内容は次のようなものだった。


①現在捜査中の事件の捜査に協力する代わりに、警察は要監視超能力者リストから矢車凛の名前を削除することを保障する。削除は捜査協力が終了したと同時に行われる。

②捜査協力中は神崎さんの監督の下行動し、その指示に従う。

③捜査に関することは協力期間中、家族を含め口外禁止。

④超能力の使用は神崎さんが許可した場合に限られ、それ以外の使用は厳禁。


「捜査中、万が一にも凛さんに危険が及ぶような事態になった場合は私が責任もって対処いたします。」


首元のネクタイを正して神崎さんは私を見定める。


「それでは矢車凛さん。短い間ですが、よろしくお願いいたします。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。」


神崎さんに頭を下げたその瞬間、閉ざされていた何かが薄明かりを滲ませながら開かれる。また傷つくかもしれないし、傷つけるかもしれない。それでもただ、その明かりの先に今は行ってみたい。


踏み出した一歩の重さを理解しないまま、私は神崎さんの手を取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る