忘却の灯火

匿名AI共創作家・春

第1話

​私の世界は、いつも少しだけ曖昧だ。朝、目を覚ますと、昨日食べた朝食の味が、クラスメートの顔が、まるで薄い霧の向こうにあるようにぼんやりとしている。それは、この「灯火市」の住民にとって、ごく当たり前のこと。なぜなら、この街では、誰もが「記憶」を税として納めているからだ。

​「灯(あかり)、朝だよ。今日はホットサンドだよ」

​母の声が、薄闇を破って私を現実へと引き戻す。キッチンからは、香ばしいパンとチーズの匂い。温かいその匂いだけは、どんなに記憶が薄れても、いつも私の中に確かに残っている。ダイニングテーブルに座ると、母は笑顔でホットサンドを差し出してくれた。その笑顔に、微かな違和感を感じる。昨日、母は少し悲しそうな顔をしていたはずなのに。

​母、燈(ともしび)つかさ。彼女は《記憶税法》の施行以来、私よりもずっと多くの記憶を失ってきた。愛しい記憶が少しずつ奪われ、顔から表情が消え、時には自分の名前すら忘れてしまうこともあった。けれど、私だけは、この燈灯という存在だけは、どんな時も覚えていてくれる。それが、私がこの探偵活動を始めた、たった一つの理由だった。母の記憶を、これ以上失わせないために。

​「灯、学校、遅れるぞ!」

​玄関から聞こえるのは、水瀬翼の元気な声だ。彼は私の助手であり、探偵活動の最初の「依頼人」だった。記憶税によって、最も大切な人の顔すら忘れてしまった彼を、私はどうにか救い出した。それ以来、彼は私に寄り添い、私が他者の記憶に触れるたびに、私の記憶が薄れていくのを誰よりも心配してくれる。私にとって、翼は荒れ狂う感情の海で溺れないように繋ぎ止めてくれる「錨」のような存在だった。

​「わかってる、翼!」

​私が返事をすると、後ろから冷たい視線が突き刺さるのを感じた。双子の妹、燈千秋だ。

​「お姉ちゃん、またあの子と?お父様に言いつけるからね」

​千秋は、私の活動を真っ向から反対している。彼女は、記憶税庁の高官である父・燈静流と同じく、《記憶税法》こそがこの街の秩序を守る唯一の道だと信じている。私たち双子は、かつて「共有記憶」を持っていた。互いの感情や体験を共有し、それが私たちを深く繋いでいた。しかし、ある出来事を境に、その共有記憶は失われた。千秋は、私がこれ以上記憶を失うことで、その共有記憶が完全に消え去ることを恐れている。彼女の言葉は、いつも私の胸を締め付けるが、それでも私は立ち止まることはできない。

​学校では、記憶税の影響がそこかしこに見られた。友人は昨日話したばかりの映画の結末を忘れているし、教師は熱弁していた授業の内容を数分後にはうろ覚えだ。それでも皆、特に気にすることなく、当たり前の日常を過ごしている。まるで、感情の核を失ったロボットのように。

​放課後、私は人目を避けて、街の裏路地にある古いビルへと向かった。そこが、私の探偵事務所だ。中はガラクタと奇妙な機械で溢れている。

​「遅かったわね、燈灯」

​出迎えたのは、白衣を着た知恵坂咲だった。彼女は、記憶を物理的なデータとして扱うことに長けたマッドサイエンティストだ。私が他者の記憶に触れることで曖昧になる自身の記憶を、「エモーショナル・キャパシタ」という小型装置で一時的に保存しようと試みてくれる。咲にとって、私はただの「探偵」ではなく、彼女の理論を証明する「理想の実験体」なのだろう。彼女は、私の能力を「視覚化」「再構築」「保存」する技術として提供し、私の探偵活動を支えてくれている。

​今日の依頼人は、古いアパートの一室でひっそりと暮らす老婦人だった。彼女は、自分の人生で最も大切な人の顔を忘れてしまったという。私は老婦人の手にそっと触れた。すると、指先から、まるで電流が走るかのように、彼女の記憶の断片が私の中に流れ込んできた。それは、暖かく、そして少し切ない光の粒だった。

​老婦人の失われた記憶を探るたび、私自身の記憶はまるで砂のように指の間からこぼれ落ちていく。けれど、それでも私は進むしかない。この街で忘れ去られた人々に、もう一度「存在の肯定」を取り戻すために。そして、いつか、私の母の、そして私自身の失われた記憶を取り戻すために。

​この灯火市で、私は「記憶を返す探偵」として、今日も忘却の闇に光を灯し続ける。


老婦人の記憶は、温かく、そして少しばかり切ない光の粒となって、私の指先から私の中へと流れ込んできた。それは、まるで古びたセピア色の写真を見るような感覚だった。まず見えたのは、陽光が差し込む庭で、小さな男の子が笑っている姿。その男の子の顔は、なぜかぼんやりとしていて、はっきりとは見えない。けれど、その笑い声だけは、はっきりと私の耳に響く。

​「……ユウタ……」

​老婦人が、かすれた声で呟いた。ユウタ。それが、彼女が顔を忘れてしまった大切な人の名前なのだろう。

​私の脳裏には、断片的な映像が次々とフラッシュバックする。男の子が熱を出して看病する夜。一緒に手をつないで散歩した公園の景色。小さな手が差し出した、不格好な手作りの花束。それらはすべて、穏やかな「愛情」という感情に満ちていた。記憶税が徴収するのは、まさにこの「感情記憶」だ。いくら出来事を覚えていても、そこに宿る感情が失われれば、それはただの無機質な情報になってしまう。老婦人の記憶から、その愛情の核が失われたことで、大切な人の顔さえも曖昧になってしまったのだ。

​「これだわ……」

​私は光の粒の中から、特に強く輝く一片を見つけた。それは、男の子が母親に寄り添い、少し照れたように微笑む瞬間だった。その表情には、無条件の信頼と、深い安らぎが宿っている。私はその光の粒に意識を集中させ、咲が開発した「メモリー・スコープ」を起動する。スコープのレンズを通して、光の粒が立体的なホログラムとして浮かび上がる。ぼやけていた男の子の顔が、少しずつ鮮明になっていく。

​けれど、その代償は、すぐに私自身の身に現れた。ホログラムが形を結ぶたびに、私の頭の中に、砂嵐のようなノイズが走る。朝、母が作ってくれたホットサンドの味が、急に思い出せなくなった。焦げ付いた香りだけが脳裏に残り、その食感が、温かさが、私の記憶からするりと抜け落ちていく。まるで、自分の一部が削り取られていくような感覚だ。

​「燈灯、大丈夫?」

​隣でタブレットを操作していた咲が、私の異変に気づいたように顔を上げた。

​「エモーショナル・キャパシタの数値が不安定ね。やっぱり、あなたの共感能力は規格外だわ。このままでは、あなたの記憶の方が先に保たなくなるわよ」

​咲の声は、どこか楽しげでもあった。彼女にとって、私の苦痛は、自身の研究データの「収穫」でしかないのだろう。それでも、彼女の技術がなければ、私は何もできない。私はぐっと奥歯を噛み締め、老婦人の記憶を再構築することに集中した。

​ホログラムが完成する。そこには、はにかむような笑顔の、幼い男の子の顔がはっきりと映し出されていた。老婦人は、震える手でその光に触れようとした。

​「ユウタ……私の、ユウタ……!」

​彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。失われた感情を取り戻した、その涙。その尊い輝きに、私の胸の奥がじんわりと熱くなる。この瞬間のために、私は自身の記憶を差し出してきたのだ。

​事務所を出ると、空は既に茜色に染まっていた。ビルの一角で、翼が心配そうに私を待っていた。

​「灯、お疲れ様。顔色が悪いぞ。今日の依頼、大変だったのか?」

​翼は私の小さな変化にもすぐに気づいてくれる。彼は私の顔を覗き込み、私の手を取った。その温かさに、少しだけ心が落ち着く。

​「うん、でも、無事、記憶を返せたから」

​私が答えると、翼は安心したように微笑んだ。

​「それはよかった。でも、無理はするなよ。灯が自分の記憶を失くしちゃったら、俺が悲しいから」

​彼の言葉は、私の失われゆく記憶に対する、唯一の「抵抗」だ。彼の存在が、私が自分自身を見失わないための道標になっている。

​帰り道、街には記憶税庁の広告が煌々と輝いていた。「記憶を納め、豊かな未来を」。そのスローガンが、私の心を締め付ける。父、燈静流は、あの広告の裏にいる人間だ。家族すらも制度の番人として見なし、記憶を「公的資源」と呼ぶ。あの冷徹な父の言葉が、私の耳朶に残響のように響く。

​千秋も、きっと同じように思っているのだろう。彼女は、私がどれだけ記憶を失い、苦しんでいるかを見ているのに、それでも制度の正しさを疑わない。私たち姉妹の間にある共有記憶が失われた「ある出来事」が、千秋をそこまで頑なにしたのだろうか。あの日のことだけは、私も含めて誰の記憶にもない。まるで、大きな空白がぽっかりと空いているようだ。

​それでも、私は立ち止まれない。母の記憶を守るため、そしてこの街で「忘れられた」人々に光を当てるために。いつか、私自身の、そして千秋との共有記憶の中に眠る真実を取り戻すために。そして、新村カナタ。私の記憶の奥底に眠る、彼の存在。彼こそが、この制度の始まりに隠された鍵なのかもしれない。

​今日の夜空も、灯火市のネオンに照らされて、星は見えなかった。


​『忘却の灯火』第二章

​翌日の放課後、咲の事務所には、また新たな依頼人が来ていた。白い髪を丁寧に束ねた、どこか寂しげな眼差しをした老婦人。彼女は震える手で、一枚の古い写真を取り出した。そこには、若かりし頃の自分と、見知らぬ男性が並んで写っている。

​「お願いです、灯さん。この写真の女性が、私なのですか? そして、私の名前は……?」

​彼女の言葉に、私の胸が締め付けられた。自分の名前すら忘れてしまった記憶喪失者。これまで出会った依頼人の中でも、最も深い忘却の淵にいる人だった。記憶税によって「人間性の核」を奪われた結果、「自分自身」という概念さえも曖昧になってしまったのだ。この街では、記憶喪失者は納税を免除される一方で、「人間性を失った存在」として社会から忘れ去られていく。私が光を当てたいのは、まさにこういう人たちだった。

​私は老婦人の手に触れた。前回同様、光の粒が私の意識の中へとなだれ込む。しかし、今回はこれまでとは全く違う感覚だった。感情の光は微弱で、まとまりがない。まるで、砕け散った鏡の破片が乱反射しているかのようだ。彼女の記憶の中には、鮮やかな出来事の羅列はある。けれど、その出来事を繋ぎ止める「私」という主語が欠落している。家族との団欒、友人との笑い声、愛しい人との触れ合い……どの記憶にも「彼女自身」という核がないのだ。

​頭の中に、再び砂嵐が吹き荒れる。今日の朝食は、何だっただろう? 母の顔は、昨日の夜、どんな表情だった? 記憶の浸食が、加速しているのがわかる。まるで、私の記憶領域全体に、この老婦人の「空白」が感染していくようだった。

​「燈灯! エモーショナル・キャパシタの数値が急激に低下してるわ! このままだと、あなたのコアメモリーまで侵食されかねない!」

​咲の緊迫した声が、薄れゆく意識の淵から聞こえてきた。普段は冷静な彼女が、こんなに焦った声を出すのは珍しい。彼女の言う通り、私の記憶はどんどん薄れていく。この老婦人の名前を探るほどに、私自身の名前すらも曖昧になっていくような錯覚に陥った。

​私は、ぐっと目をつぶった。老婦人の記憶の海で、微かに光る、最も感情の熱を帯びた断片を探す。それは、まるで漆黒の深海に沈んだ、小さな真珠を探し出すような作業だった。

​そして、見つけた。

​それは、雨の日の路地裏の記憶だった。若かりし頃の彼女が、ずぶ濡れになりながら、捨てられた子猫を抱きしめている。その瞳には、深い「慈愛」が宿っていた。そして、子猫を抱きしめる彼女に向かって、写真に写っていた男性が駆け寄ってきて、優しい声でこう言ったのだ。

​「さくら、大丈夫かい?」

​その瞬間、稲妻が走ったように、散らばっていた記憶の光の粒が、一箇所に集まり、鮮烈な輝きを放った。老婦人の名前だ! 「さくら」――それが、彼女を彼女たらしめる、最も重要な記憶の核だったのだ。

​私は意識のすべてをその一言に集中させ、「メモリー・スコープ」に情報を転送する。スコープから放たれた光が、老婦人の目の前に、一輪の桜の花びらとなって舞い落ちた。そして、その花びらが、ゆっくりと「さくら」という文字へと形を変えた。

​老婦人の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。声もなく、ただひたすら、その光る文字を見つめている。

​「さくら……私の、名前……」

​微かな声だったが、確かに彼女は自分の名前を呟いた。その顔に、今まで見たことのない、安堵と、そして深い悲しみが混じった表情が浮かんだ。彼女は名前を思い出したけれど、その名前が意味する「自分」という存在の重さを、改めて感じ取ったようだった。

​事務所を出ると、空にはもう三日月が細く光っていた。翼が、いつものように私を待っていた。

​「灯……今日の君は、いつもよりずっと疲れているように見える」

​彼は私の手を取り、その指先が、微かに震えていることに気づいたようだった。私の脳裏には、さっきまで確かにあった老婦人の顔が、もう曖かい輪郭しか残っていない。彼女の名前すら、かろうじて「さくら」という音だけが残っているだけだ。

​「うん……少しね。でも、無事、名前を思い出してもらえたから」

​私が答えると、翼は私の手を握りしめた。

​「灯が、自分の名前を忘れることだけは、俺が絶対にさせないからな」

​彼の言葉が、冷え切った私の心に、じんわりと温かさを広げてくれる。彼の隣にいると、失われゆく私の記憶が、まるでそこだけは守られているかのように錯覚する。

​帰り道、記憶税庁の巨大なビルが、不気味に夜空にそびえ立っていた。あのビルの中に、父がいる。私がどれだけ苦しんでいても、千秋が私を心配していても、彼はあの制度を守り続けるのだろう。千秋が、私と彼女の共有記憶の喪失に、何か大きな意味を見出しているように、父もまた、あの制度に何か抗えない過去を背負っているのだろうか。

​そして、新村カナタ。私の記憶の奥底で、呼びかけている声。彼の存在は、私がこの「記憶税」という世界の真実を探る上で、最も重要な手がかりだと直感している。彼は、この制度の初期実験体だった可能性があると咲は言った。もしそれが本当なら、彼の記憶の中に、全ての答えがあるのかもしれない。

​私の記憶は、今日もまた、少しだけ曖昧になった。それでも、私は立ち止まらない。この街で忘れ去られた人々に、光を灯し続ける。そしていつか、私自身の、そして大切な人たちの失われた記憶の真実を、取り戻してみせる。

​この忘却の闇に、再び灯火をともすために。


自身の名前すら忘れてしまった老婦人の記憶を再構築し終え、咲の事務所を後にした私は、夜空を見上げた。細い三日月が、街のネオンの中でかすかに光っている。今日の記憶の侵食は、これまでで一番激しかった。自分の記憶の空白が、まるで老婦人のそれと重なり合うように広がっていく。翼の言葉だけが、私をこの曖昧な現実に繋ぎ止めていた。

​翼は、私にとって初めての「依頼人」であり、同時に、この探偵活動の「始まり」だった。彼の依頼は、私自身の忘却への恐怖を打ち破り、前へと進む勇気をくれた。

​あれは、まだ私が探偵活動を始めたばかりの頃だった。

​雨の降りしきるある日の午後、私の事務所の扉が、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、傘も差さずにずぶ濡れになった、少しばかり痩せた少年だった。水瀬翼。それが、彼の名前だった。その時の彼は、今のように明るく、私を支えてくれる存在ではなかった。彼の瞳には、深い諦めと、言葉では言い表せないほどの悲しみが宿っていた。

​「あの……記憶を返してくれる探偵さん、ですか?」

​彼の声は、雨音にかき消されそうなほど弱々しかった。私は、まだ粗末だった事務所の小さなテーブルに彼を招き入れた。

​「はい。私は燈灯。どんな記憶をお探しですか?」

​私が尋ねると、彼は俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。

​「俺は……おばあちゃんのこと、思い出したいんです」

​彼が語り出したのは、優しい祖母との思い出だった。共に過ごした何気ない日常。笑い合った時間。そして、彼の心を支え続けた、祖母の温かい手。彼は、その出来事自体は鮮明に覚えていると言う。祖母の誕生日にはいつも手作りのケーキを焼いたこと。病気で寝込んだ時に、夜通し看病してくれたこと。一つ一つのエピソードが、彼の口から淀みなく紡ぎ出された。

​しかし、彼の声には、感情が全く伴っていなかった。それは、まるで教科書を読み上げるような、無機質な響きだった。

​「でも……その時の、気持ちが、思い出せないんです。どれだけ思い出しても、温かさとか、安心するとか、愛しいとか……そういう感情が、全然湧いてこない。記憶税のせいで、大事なことだけが、ごっそり抜け落ちたみたいなんです」

​彼の瞳の奥で、微かな光が揺らめいた。それは、失われた感情への、切実な渇望だった。彼は出来事を覚えている。だが、それらに紐づく「愛」という感情を失ったことで、祖母の存在そのものが、彼の中で薄れていってしまっていたのだ。彼の依頼は、単なる出来事の復元ではなく、祖母への「愛」という、人間性の最も核となる感情を取り戻すことだった。

​私は、彼の震える手に、そっと自分の手を重ねた。ひんやりとした彼の体温が、私の手のひらに伝わる。

​彼の記憶の中へ潜り込む。そこは、これまでの依頼人の記憶とは明らかに異なっていた。出来事の光の粒はたくさんあるのに、それらを繋ぎ止める感情の糸が、まるで蜘蛛の巣のようにボロボロに引きちぎられている。愛の記憶は、通常なら温かい光を放つはずなのに、彼の記憶の中では、ただの冷たい情報の塊として存在しているだけだった。

​「温かさ……安心……愛しさ……」

​私は心の中で、彼が失った感情を反芻した。その感情の残響を探して、彼の記憶の深淵へと潜っていく。ノイズが激しく、頭痛がしてきた。それでも、私は諦めなかった。この感情を取り戻さなければ、彼は永遠に、祖母への「愛」を失ったままになってしまう。

​そして、見つけた。

​それは、彼がまだ幼かった頃の記憶だった。夕暮れ時、祖母の家の縁側に座り、祖母が彼の頭を撫でる、ただそれだけの光景。祖母の手は皺だらけで、少しごつごつしている。けれど、その指先から伝わる温かさは、彼を包み込み、絶対的な安心感を与えていた。そして、祖母が彼に差し出した、素朴な飴玉。その時、彼が感じたのは、言葉にならないほどの「無償の愛」だった。

​その瞬間、彼の記憶の奥底で、途切れていた感情の糸が、再び結び合わされるのを感じた。光の粒が、互いに引き寄せられるように集まり、大きな温かい光の塊を形成した。私はその光を「メモリー・スコープ」に転送する。

​スコープのレンズから、縁側に座る祖母と翼のホログラムが浮かび上がる。そして、祖母の手が、翼の頭を優しく撫でる。その何気ない仕草から、温かな光が溢れ出し、事務所全体を包み込んだ。

​翼は、固唾を飲んでその光景を見つめていた。やがて、彼の頬を、大粒の涙が伝い落ちる。それは、失われた感情を取り戻した、再会の涙だった。

​「おばあちゃん……!」

​彼は、まるで幼い子供のように、声を上げて泣いた。その涙には、確かに「愛」の感情が宿っていた。

​その日以来、翼は私の隣にいるようになった。私が自身の記憶を失いそうになるたび、彼は私の手を握り、温かい言葉をくれる。彼は、私が他者の感情の海で溺れないように繋ぎ止めてくれる、確かな「錨」となった。彼の存在がなければ、私はきっと、とっくに自分自身を見失っていただろう。

​彼を救ったあの日から、私の探偵活動は本格的に始まった。記憶を失い、社会から忘れ去られていく人々。記憶税の矛盾に苦しむ納税者。そして、私の記憶の奥底に眠る「新村カナタ」の存在。

​翼の依頼は、私にとっての「灯火」となった。たとえ私の記憶が曖昧になっても、彼との絆だけは、きっと失われないと信じている。


​自身の名前を忘れてしまった老婦人の記憶を再構築して以来、私の記憶の曖昧さは、さらに進んだように感じていた。朝、教科書を開いても、前日に読んだはずのページの内容が、まるで初見のように映る。それでも、私はこの探偵活動を止めることはできない。私が光を灯さなければ、この街で忘れ去られていく人たちは、ますます増えていくだけだから。

​ある日の放課後、私は職員室に呼び出された。担任の小林先生が、いつもと違う、どこかぎこちない表情で私を見ていた。彼は、いつもは熱血漢で、生徒一人ひとりに真摯に向き合う、私のお気に入りの先生だった。

​「燈灯、少し、話があるんだが……」

​小林先生はそう言うと、周囲を気にするように視線を巡らせ、私の目を見て、静かに言った。

​「実は、君に、相談したいことがある」

​彼が差し出したのは、私立探偵燈灯と書かれた私の名刺だった。いつの間にか、私が探偵をしていることが、学校にも広まっていたらしい。生徒の間に広まるのはまだしも、先生にまで知られているとは、正直、驚きだった。

​私は小林先生を事務所へと案内した。いつものように、翼が心配そうに私を見つめている。咲は、新しい「メモリー・スコープ」の改良に夢中だ。

​「先生、どのような記憶を……?」

​私が尋ねると、小林先生は深いため息をついた。

​「私は、この学校の教師として、生徒に知識を教え、導くことに誇りを持ってきた。だが、最近、どうも腑に落ちないことがあるんだ」

​先生は、ある特定の生徒について語り始めた。その生徒は、かつて非行に走り、学校生活からドロップアウト寸前だったという。小林先生は、その生徒を何とか立ち直らせようと、時間をかけて向き合い、最終的には卒業まで導くことができたらしい。その出来事自体は、先生の記憶の中に鮮明に残っている。生徒の名前も、その生徒が引き起こした問題も、先生がかけた言葉も、全て覚えている。

​「だが、どういうわけか、その時の感情だけが、どうしても思い出せないんだ」

​先生は、苦しそうに顔を歪めた。

​「あの生徒が立ち直った時、私は、心の底から嬉しかったはずだ。教師として、最高の喜びを感じたはずだ。だが、今、それを思い出そうとしても、ただ『事実として嬉しかった』としか思えない。胸の奥が、全く温かくならないんだ。まるで、その時の情熱や責任感が、ごっそり抜け落ちてしまったみたいで……」

​小林先生の記憶から失われたのは、「教師としての情熱」と「生徒に対する責任感」という、彼の人間性の核とも言える感情だった。記憶税は、個人の感情記憶、特に愛・痛み・絆といった「人間性の核」を徴収する。教師としての情熱や責任感もまた、彼にとっての重要な感情だったのだ。この感情が失われたことで、彼は教えることそのものに、意味を見出せなくなっているのかもしれない。

​私は、小林先生の、少しだけ震える手に触れた。彼の記憶の中へ潜り込む。

​小林先生の記憶は、これまでで最も複雑な迷路のようだった。教室の喧騒、生徒たちの笑顔、テストの採点、進路指導……無数の出来事の光の粒が、まるでデータのように整然と並べられている。しかし、その一つ一つから、感情の温かさが失われている。特に、彼が語った非行生徒との対話の記憶は、映像は鮮明なのに、そこに流れるはずの感情の脈動が、完全に途絶えていた。

​「情熱……責任感……」

​私は心の中で繰り返した。その感情の残響を探し、記憶の奥深くへと潜っていく。私の頭の中では、激しいノイズが鳴り響く。今日の授業で習った歴史の年代が、急に思い出せなくなった。給食のメニューも、昨日何を食べたのかも、記憶から消えかけている。まるで、私の脳の感情領域が、先生の空白に引きずり込まれていくようだった。

​「燈灯、無理よ! 今回の記憶は、感情の糸が複雑に絡み合ってる。これ以上深追いしたら、あなたの記憶まで、先生の感情の空白に吸い込まれてしまうわ!」

​咲の叫び声が聞こえた。普段冷静な彼女が、私を本気で心配しているのがわかる。しかし、私は止まれない。小林先生のあの瞳の奥に宿る絶望を、私は見過ごせない。彼は、ただの教師ではなく、情熱と責任感を持って生徒と向き合ってきた、一人の人間なのだ。

​私は、ぐっと奥歯を噛み締め、さらに深く潜り込む。そして、見つけた。

​それは、雨が降る放課後の校庭の記憶だった。先生が一人、サッカーゴールに寄りかかり、ずぶ濡れになりながら、うつむいている非行生徒の隣に座っている。先生は何も言わず、ただ、生徒の肩にそっと手を置いた。言葉はなかった。けれど、その手から伝わる温かさは、生徒への深い信頼と、彼を何としても救いたいという、揺るぎない「情熱」と「責任感」に満ちていた。その瞬間、途切れていた感情の糸が、再び結び合わされるのを感じた。

​私はその光を「メモリー・スコープ」に転送する。スコープから放たれた光が、小林先生の目の前で、雨に濡れた校庭のホログラムとして浮かび上がった。先生は、固唾を飲んでその光景を見つめていた。そして、自分の手が、あの生徒の肩に置かれる光景を見た瞬間、彼の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。

​「あの時の……あの時の気持ちだ……!」

​先生は、震える声で呟いた。そして、まるで堰を切ったように、声を上げて泣き始めた。彼の涙には、紛れもない「情熱」と「責任感」が宿っていた。

​「燈灯、ありがとう……本当に、ありがとう……!」

​小林先生は、深々と頭を下げた。彼の顔には、教え子を取り戻した喜びと、再び教師としての情熱を取り戻した輝きが満ちていた。

​事務所を出ると、空は既に闇に包まれていた。雨上がりの空気はひんやりと冷たい。翼が、いつものように私を待っていた。

​「灯、お疲れ様。顔色が……」

​翼の言葉が途切れた。私の記憶は、今日の依頼で、また少し空白が広がった。今朝、担任の小林先生が私を職員室に呼んだ、その理由さえも、もう朧げになっている。

​「灯、俺がそばにいる。だから、大丈夫だ」

​翼は私の手をぎゅっと握りしめた。彼の体温が、私の冷え切った心にじんわりと染み渡る。彼の隣にいると、失われゆく私の記憶が、まるでそこだけは守られているかのように錯覚する。

​帰り道、記憶税庁の巨大なビルが、不気味に夜空にそびえ立っていた。父の顔が、脳裏をよぎる。千秋の、心配そうな顔も。私たちが失った「共有記憶」の謎。そして、新村カナタ。私の記憶の奥底に眠る、彼の存在。彼こそが、この制度の始まりに隠された鍵なのかもしれないと、私は改めて強く感じた。

​私の記憶は、今日もまた、少しだけ曖昧になった。それでも、私は立ち止まらない。この街で忘れ去られた人々に、光を灯し続ける。そしていつか、私自身の、そして大切な人たちの失われた記憶の真実を、取り戻してみせる。

​この忘却の闇に、再び灯火をともすために。

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