青空の釣り人

@O__saki

青空の釣り人

つまらない。この世界はつまらない。

少なくとも俺の人生では、皆が俺を嘲笑し、優しい顔をしている。


ばかめ、俺にはわかる。


だから今、一筋の綱を握りしめて、草原を闊歩している。つまらない。道中、人を見かけたが、話しかけることはなかった。どうせ、俺が今から何をするか知っていても──。


​───ここにしよう。


デスクトップのような茂みの中に、一本だけ、俺とは真逆に、威風堂々としている。ちょうど良い大きさだ。


今日が最後。この場所で最後。この作業が最後。今が最後─────。


昔、故郷を去った時を思い出した。あの時も、俺の頭の隅にはこの気持ちがあった。寂しさと不安。だがもう、思い残すことは無い。


首を縊るだけ。綱から手を離し、宙に浮くだけ。《首を長くして待っています》なんてな。はは。


──雨が降り始めた。雨降れどなお、空はまっさらな青。素晴らしい。最期に相応しい、美しい雨だ。ああ、終わることが出来る。なんて美しい世界だ。美しすぎる。美し過ぎるが故に、怖い。


遠くで、人影が見える。


むむむ。釣竿。


なんて事だ。釣竿なんて。どうしてそんなものを持っているんだ。きさまは。


しまった。疑問が浮かんでしまった。このままでは、終われない。尋ねなければ。ちくしょう。絵に書いたような最期を迎えられるはずだったのに。


仕切り直しだ。綱を一度解いて、他の場所へ行こう。まったく、面倒だ。が、しかし、気になる。


俺はそいつに向かって叫んだ。


「なぜ釣竿なんか持っているのですか」


男はこちらを見てしばらく経ったのちに叫び返す。


「僕の釣り場所はこの青空です」


なんだこいつ。何を言っているんだ、ばかばかしい。こいつは白痴だ。きちがいだ。俺の最期を台無しにしやがって。


これだからつまらないんだ。どいつもこいつも、俺の邪魔ばかり。口ではなんとでも言える。どうせ裏では皆、後ろ指を指している。俺にはわかる。


きちがいは徐々に俺に近づいて来ていて、その距離はもう4メートル位だった。


「信じないのは当然です。見ていて下さい」


そうしてこの白痴は、大きくその竿を振りかざした。すると、糸はたちまち空へと昇っていった。


なるほど、ようやく理解した。俺は今、眠っているのだ。夢を見ているのだ。この草原も、雨の美しさも、そして今、目の前で起きている光景も。

現実の俺はきっと、練炭でも燃やしているのだろう。


───竿が、静かに揺れた。


青空に吸い込まれた糸の先と共に、何かが降りてくる。


「え、なんですかこれ」


俺はこれを知らない。そうして、釣り人は言った。


「わかりません。ただ、美しいでしょう」


俺は何も言わなかった。しかし、確かにこれは、美しい。形のない、ただそこに在る。光の塊のような、風の束のような。目が逸らせないほどに美しい"何か"であった。


俺は馬鹿げていると思ったが、どこか、心臓の奥の、さらにその奥の方が、心拍とは別に震えているのを感じた。風の音が耳に触れる。俺は恐らく、この正体不明で説明不能の現象を受け入れようとしている。


「確かに、合理的に考えれば釣れるはずがない。でも、投げてみなければ分からない。

竿を投げない限り、誰も何も釣れはしないのです」


釣り人は、空を仰ぎながら話した。


俺も釣り人を見て、同じように空を仰いだ。


雨粒が頬を伝ったが、雨はもう降っていない。


「それ、重たくないですか」


釣り人が呟いた。


その時、手に持っていた綱がとても重く感じた。まるで、不要なものを握りしめているように。


俺はゆっくりと手を離した。宙に浮くわけでもなく、ただ草原に綱を落としたのだ。


──辺りを見渡したが、釣り人は何処にもいなかった。


風に揺れる糸の残像だけが、青空に細く、確かに残っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青空の釣り人 @O__saki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ