第2話



 くしゅん、と小さなくしゃみがして司馬孚しばふは顔を上げた。


伯言はくげんさま、一度雨戸を閉めましょう。朝から開けてますし……一度温かくしてお眠り下さい」


 笑いながら司馬孚はやって来て、そっと雨戸を閉じた。

 陸議りくぎは余程雪が珍しいのか、雪が降り始めてから一日中でも見ているのである。


「はい」


 子供のような注意をされたのを自覚して、陸議は自分でも笑ってしまった。

 素直に毛布に首まで潜り込んでおく。

 側の椅子に司馬孚が腰掛けた。


「……腕の具合はいかがでしょう」


 ここに運び込まれてから三日経った。

 無論、陸議が負った腕の傷は三日で良くなるようなものではない。

 

 今でも思い出すと、郭嘉かくかが腕を裂いたあの瞬間のことを思い出す。

 毒を取り除くためだったというのは分かるのだが、そうだとしても恐ろしい処置の仕方だった。

 幼い頃から目を掛けられて来た曹操そうそうの腹心だとは聞いたが、普段穏やかでそれこそ詩人のような姿をしている青年なので、あんな蛮行を躊躇いなくしようとは思いもしなかったのである。


 腕の傷は多分、このまま塞がるだろう。

 今はまだ少しでも動くと痛みがあるし、傷も開く恐れがある。

 腱が傷ついていたら二度と剣は持てないし、最悪、指も動かすことが出来なくなるだろうと軍医は言っていた。

 

 陸議にもそれは包み隠さず伝えてあるが、彼に悲観的な表情は何故かなかった。

 あの毒は正確には分からなかったが、命を速効で奪うようなものだと思ったから、死んでいたかもしれないことを思えば、生きてる今は幸運なのだと、そう言っている。


 司馬孚しばふは陸議の真実の背景を、兄から全て聞いた。


 前々から、何故彼はあんなにも落ち着いてどんな状況にも対応出来るのだろうと思っていたが、理由がようやく分かった。


 孫家に攻められた名門陸家の当主。

 まだ少年と言っていい時に、育ての父から託されたのだ。

 その中で難しい決断を、彼はこなした。

 自分などとは、生きていくということに関して覚悟が違うのだ。


 徐庶じょしょがやって来た。

 徐庶と司馬孚は陸議の世話もあり、今はこの部屋で寝泊まりしているのである。


「おかえりなさい」


 司馬孚が声を掛けた。

 徐庶は火鉢に入れるための新しい炭を持って来たらしい。

「ありがとうございます」

 陸議が気付いて、声を掛ける。

「いえ。替えておきますね」

「外に行かれていたんですか? 随分早く起きられていましたが……」

 司馬孚が首を傾げると、徐庶が笑って首を振った。


「いいえ、雪が積もってるのを眺めてました。あと薪割りの手伝いとか……」


 司馬孚しばふが吹き出す。

「ここから見ればいいのに」

「いえ、ずっと見てると寒い風が入ってくると思って」

「徐庶殿も雪が珍しいんですか?」

「そうですね、あんまりここまで積もるようなのは見たことなかったかな。

 魏に来てからは比較的暖冬で、長安は積もらなかったから」


「そうでしたか。陸議様も朝からずっと熱心に雪を見ていらっしゃいました」


 この三日は断続的に雪は降ったりやんだりしていたが、積もっている。

 賈詡かくの話ではこれからもっともっと降り積もるという。


「あとで少し、外を見てこようと思っています」


 三人でお茶を飲んだあと、徐庶が言った。

「先程薪を割っている時に、通り掛かった賈詡将軍にお願いしたら、夜までに戻ればいいと言って下さったので」

「でも……雪が積もってますよ」

「はい。でも見たところ馬はまだ走れそうなので。というより晴れを待とうと思ったのですが、賈詡将軍は恐らくこれからもっと積もるだろうと言ってらっしゃったから」


「そうなのですか」

「はい。馬も無理になりそうだとか」

「どこを見に行かれるのですか」


「山の方を。……どこというわけでもないですが焼かれた村もたくさんあったので、逃げ延びた人もいるかもしれない」


「そうか……そうですね。あれからどうなっているか分かりませんし」

「それで司馬孚殿、もし良かったらなのですが、付いて来て頂けないでしょうか?」

「わたしですか?」

「そうなんです。私は……謹慎中なので、賈詡将軍が誰か人を連れて行くならということで許可をして下さったので」


 司馬孚しばふは明るい表情で頷く。


「そういうことでしたら喜んで! 私も山の方がどのような感じになっているか気になっていたんです」

「気をつけて下さい。危険な敵は……もういないとは思いますが」

「司馬孚殿の身は必ず私が守って、無事にお帰しします」

 徐庶が言うと、陸議は笑った。

「はい……。でも徐庶さんも必ず無事に帰って来て下さい」


 徐庶は一瞬目を瞬かせたが、小さく頷いた。



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