花天月地【第77話 残照を辿る】

七海ポルカ

第1話




「お嬢様、商船が近づいてきました」



 張春華ちょうしゅんかは振り返った。


 見遣ると、一目でそれと分かる商船に、着飾った女たちが甲板に並び、その中に一人、派手な赤地に金の衣装を纏った男が立っているのが見えた。


 

 ――悪趣味ねえ。



 自分の夫があんな服で外に出て行ったら羽交い締めにしてでも止めに行くだろう。

 とはいえ、相手は江東こうとうの荒くれ者である。

 衣装の着方なんぞに文句を言ったら何をされるか分かったものではない。


「剣を」


 護衛が慌てて、進み出る。


「いけません、お嬢様。我々が共に参ります」


「駄目よ。貴方たちが付いてきたら、相手は警戒して話さない」

「ですが相手はどこの馬の骨とも知らぬ……」

「貴方たちはここで見張っていて。

 見なさい、あんなに女をゾロゾロ引き連れてる。

 きっと女には甘い男よ」


 張春華ちょうしゅんかは剣を奪い取るようにすると、軽い足取りで川の畔にある四阿しあに向かった。


 男もこちらが一人と見て、一人で船を下りて来たが、甲板に残された女たちはぶうぶうと文句を言っているようだ。


「あいつらに声を掛けたってのはあんたか?」


「ええ。【干将莫耶かんしょうばくや】と司馬仲達しばちゅうたつのことを聞きたいんでしょ?」

 男は不躾に張春華の上から下を見た。


「俺としては密談はもうちょっと育った色気のある女としたいんだがな」


「私も貴方みたいな変な服の趣味の男とは、本来なら口も利かないわよ」

「高かったんだぜこれ」

 祖鑑そがんは片眉を持ち上げたが、春華はつんとしている。


「まあいい。こっちも遊びに来たわけじゃねえ」


 祖鑑は先に四阿しあに入っていった。

 吹き抜けになっていて、外から見えるような簡易的な建物だ。

 外では互いの商船に乗った女たちと、護衛の男達が甲板で睨み合っている。


 先に運び入れていたお茶を春華が淹れる。


「どうぞ」


 男は頷き、茶を飲んだ。

 財はありそうなのに、名も知らない女の茶をいきなり飲むなんて余程の馬鹿か豪気かのどっちかである。

 張春華ちょうしゅんかが理解したのは、呉から来たらしいこの集団の頭領が、とりあえずは自分自身の暗殺など全く気にしてない立場の男だということである。


 春華も茶を飲んだ。


「俺らを気にしたってことは、お嬢は【干将莫耶かんしょうばくや】と司馬仲達しばちゅうたつのどっちかに関わってるってことだろうが、どっちだ?」


「私は見ての通り、魏の豪族の娘よ。

 分かると思うけど、財はある。意味がお分かり?」


「俺らを騙して金をふんだくったりする必要はねえって意味だろ。かといって自分の素性もあんま話す気はねえ」


「ええ。貴方みたいな人達とお付き合いしてるって噂になったら、迷惑を掛ける人がたくさんいるものだから」


「構わねえよ。俺もお嬢の素性はそんな興味ねえんだ。

 俺が知りたいのは【干将莫耶】の行方の方だ」


「あら司馬仲達の方はいいわけ?」


 祖鑑そがんは腕を組んだ。


「お嬢、あんた司馬仲達の縁者か?」


『縁者』というその言葉に、死んでもお前を娶る気は無いなどと司馬懿に言われた記憶が蘇って、張春華ちょうしゅんかは嫌な顔をした。


「なんだ俺に殴りかかる気か?」

 突然殺気を纏った女に、祖鑑は小首を傾げる。


「違うけど……。まあ、知ってはいるわ。それなりに」

「身内か? あいつ兄弟が多いって言ってたよな」

「あいつの兄弟はみんな男よ。こんな可憐な姉妹はいないわ。聞いてないの? あれだけ情報収集してて。情けないわね」

「随分口の悪いお嬢ちゃんだな」

 祖鑑が無遠慮に笑っている。


「誰がお嬢ちゃんよ。貴方たち、うちに出入りする商人が会ったみたいだけど、呉から来たんじゃないかって言ってた」

「いかにも俺様は呉からやって来た」

「本当に武器商?」

「まあ一応本当に武器商ではある。だが色々非合法な取引もしてるんでね」

「あら。賊っぽいって思ってたけど本当に賊だったのね」

「そういうことは口に出さず心だけで思いな」

「今、魏は大切な時期だから、外敵に情報を渡すようなことは許されないのよ」

「ああ。そういうことなら安心しな。俺らも建業の役人にはかなり目を付けられてるから、別に完全なる呉の味方ってわけじゃねえしよ。儲けになるなら他の二国だろうが、どこへだろうが売りつける」


 張春華ちょうしゅんかも腕を組んだ。

「ふーん。じゃあ聞くけれど、何故【干将莫耶かんしょうばくや】が気になるの?」


「何故って名刀だからだよ。俺も武器商の端くれだ。おめーあれの価値知らねえのかよ。

 古の時代から王の傍らを飾ったっていう名刀だ。

 袁術えんじゅつの野郎が殺されてから、行方不明だったんだろ。

 それが魏の次の王になる曹丕そうひの戴冠式に合わせて長安ちょうあんに出現したってんなら、そりゃ腐っても武器商なら一度は見てみてぇって思うに決まってんじゃねえか」


 春華は立ち上がった。

「ん?」

「帰るわ。貴方たちがどういう事情で剣を探そうと、その情報が集まらなくたって私の方には一切損はないわけだし」


 四阿しあから出ようとした春華を呼び止める。

「へー。まあまだ小娘だが、何の考えも分からず好奇心で俺達に声かけたってわけじゃなさそうだな」

「誰が小娘よ。あなたが商人で魏にいる以上、私の父は敵に回したら怖い相手よ」


 ふん、と祖鑑そがんはもう一度茶に手を伸ばした。

「そうかい。だが生憎全然怖かないね。魏なんか、勇んで出て来た割に呉の水軍に撃退されて泣きながら帰った国じゃねえか」


 ふんぞり返った男を張春華は睨み付けた。

 別に彼女は、立派な魏への忠誠心があるわけではなかったが、今の言い方は気に入らなかったのである。


(なんでこいつは【干将莫耶かんしょうばくや】を狙うのかしら。見てみたいなんて口実に過ぎないと思うんだけど……。ということはやはり、そっちは口実で司馬仲達しばちゅうたつに探りを入れるのが目的なのかしら? でもそんなに頭のいい間者には見えないんだけどなあ)


「……なーんか色々疑ってるらしいな、お嬢。まあ無理もねえけどよ」


 どうしたもんかな、と祖鑑そがんは考えた。

 

 陸伯言りくはくげんの行方である。

 祖鑑そがんは、陸遜りくそん司馬懿しばいの許にいて、陸遜の為に司馬懿が【干将莫耶】を競り落としたと見ている。

 しかし陸遜の名を出すのは非常に危険だった。

 呉から、彼の居場所を探りに来ている者がいるなどと知られた場合、虜囚になっていたとしても、そうでなくとも、いずれにせよ口封じで陸遜が始末される恐れがある。

 

(それはいかにもつまらん幕引きだ)


 今、司馬懿の側にいて、陸遜がどのような状態にあるのか祖鑑は気になっていたし、ある意味面白いのである。

 それが慌てて処分などされて死体だけ長江ちょうこうに浮かんで来たりしたら、興醒めだ。ここは慎重にやらねばならない。


 目の前の女は恐らく司馬懿に近い豪族の娘なのだろう。

 だとしたら司馬懿しばいに危険を及ぼす人間の排除が目的で現れたのか。

 呉の者ということを警戒していたから、呉軍と関わりがある者で、曹丕そうひの右腕である司馬懿に怪しい者が近づいているのを危惧しているのかもしれない。


 司馬懿に近すぎる人間では駄目なのだ。

 祖鑑はそう考えた。

 もっと第三者的に魏の情勢を見ている人間から、気取られることなく陸遜りくそんの情報を入手したい。


干将莫耶かんしょうばくや】なら、戦場に出れば必ず噂になる。

 涼州遠征に司馬懿が出て、涼州で剣の噂が出れば、それは陸遜がそこにいる可能性が高い。

 遠征先ならば隙を見て窺ったり、接触することは出来るかもしれなかった。


(感謝しろよ、陸伯言りくはくげん

 俺がここまで労をこなすのは、珍しいんだからな)


 よし、と祖鑑そがんは決めた。


「上手い茶だったが、この取引はどうもお互い、上手く行かねえようだ。

 じゃあな、お嬢」


 立ち上がり、祖鑑が四阿しあを出て行った。

 張春華ちょうしゅんかは小さく舌打ちをする。

 単なる荒くれ者かと思っていたが。意外と冷静だ。


「何の情報も得ずに行くつもり?」


 四阿の窓から顔を出して呼びかけると、男は少し行ったところで振り返る。


「お前が話す気が無いからな。構わねえよ。

干将莫耶かんしょうばくや】はな、戦場に現れれば一発で噂になるほどの代物なんだ。

 俺は、あの剣を司馬仲達しばちゅうたつが競り落としたと見てる」


「何故?」


「そりゃ司馬仲達が曹子桓そうしかんの腹心だからだよ。

【干将莫耶】は元々あいつの戴冠のために集められた名刀の一つ。

 それを他の豪族が競り落としたら、曹丕そうひに睨まれる可能性がある。

 王家に収めず、豪族が競り落としたことは分かってる。

 それなら司馬家しかねえ。曹丕が許したんだろ」


「……呉に戻るの?」


「いや。司馬懿が出陣したなら涼州に行く。

 生憎俺はすでに財を余るほど持ってるんでな。あくせく働く必要が全くないから暇なんだよ。

 以前司馬仲達しばちゅうたつを涼州で見かけたことがある。

 なかなか見目からして異質な奴だったから、名高い涼州騎馬隊相手に、あの野郎がどんな戦いをするか、見てくるのも面白い。そういう情報は、呉軍の奴にも高く売れるしな」


「司馬仲達を見たことがあるの?」

「おう。涼州に商いに行ったついでに見たことあるぜ」


 張春華ちょうしゅんかは女としては果断だった。

 どうせ司馬懿しばいが正妻になどしたら、本当に殺してやろうと思った女だったのだ。

 素性を暴いてやると司馬懿にも言った。

 勝手にしろなどと言ったのだから、勝手にしていいのである。



「――あなた。呉から来た、陸佳珠りくかじゅという女を知らない?」



 祖鑑そがんが振り返った時、張春華は一瞬の表情を見ていたが、非常に分かりにくい表情を男が見せた。

 それは驚きでも無かったが――だが、何の脈絡もない顔というわけでもない。どちらかというと怪訝そうな顔だ。


「知ってるのね!」


 鎌を掛けてみたが、男は乗ってこなかった。


「いや、なんつったか聞こえなかっただけだ。

 陸……なんつった?」


 不本意ながら、張春華ちょうしゅんかは仏頂面で答える。

陸佳珠りくかじゅ

「いや知らねえけど」

「あっそう。もういいわよ」

「なんだ。おめー聞きたかったのそれか?」


 祖鑑そがんが目を丸くして、大笑いする。


「五月蠅いわね! なんでもいいでしょ!」


「いやいいけどよ……女ってやっぱり男じゃ全く分かんねえことを気にするよな。

 想像しても無いことを気にしたり探ってきたりするからよ」


 ふん、と女は顎を逸らした。


 陸佳珠りくかじゅ……。


 陸伯言りくはくげんを探してやって来た所に、聞いたことのない、だが不思議な響きを聞いた。


「なんだ、お前の恋敵かなんかか?」

「違うわよ!」

 女が怒って来たので、そうなんだなと正しく理解する。

 女の悋気りんきは女の弱味だ。

 ここにつけ込むと、どんな女でも弱い。

 少し気になり、そして何よりなんだか面白かったので、祖鑑そがんは試しにつけ込んでみることにした。


「ははーん。なるほど。お嬢が妬むなら顔もいいし体も豊満な相当の美人だろ。

 無駄無駄、諦めな。こればっかりは男はそういう女の方がいいんだからよ」


「違うわよ! 確かに顔はいいけど性格は暗いし体つきだって細いばっかりの扁平よ!」

「あんたに扁平ってそいつも言われたくねえと思うけどな。まあそいつのことも知らねえが」


「五月蠅いわね! 誰が扁平よ! 普通にあるわよ失礼ね!」


「まあ確かに呉にはりく姓多いけどよ。それでおめーいちいち呉からの商隊にそいつ知らねえかって声かけるの効率悪すぎだろ。っていうか……」


 なんでそんなのを余所者に聞くんだよ。

 聞こうとして、祖鑑は気付いた。


「そいつの正体が知りたいわけだな? お嬢。素性が分からねえ女なんだろ。

 だからどこから来た奴なのかを探りたいわけか」


 張春華ちょうしゅんかは押し黙った。

「別に女の喧嘩に口出しゃしねえよ……」

 祖鑑そがんはおかしそうに笑っている。


「俺は【干将莫耶かんしょうばくや】が目的だったが、おめーは司馬仲達しばちゅうたつが目的だな? 

 次期皇帝となる曹丕そうひの右腕。

 なるほど玉の輿を狙ってるから、司馬仲達に近づく女が邪魔だと。

 その陸佳珠りくかじゅって女を今、司馬仲達が囲ってんだろ。さては。

 なんだそうなら最初からそう言えよ」


「言っておくけど玉の輿じゃ無いわよ! どっちかというと私の方があいつをもらってやるくらいなのよ!」


 司馬仲達の女か。

 これは面白い。


「調べりゃお前の素性も案外簡単に分かりそうだな。司馬仲達の側にいる武器商の娘で、随分分かるだろ」


「だから何よ。別に私は何も後ろ暗いことなんかしてないわよ。むしろ司馬仲達の名誉のために、敢えて名を出さないでやってるだけで、あいつがコソコソと女を連れ込んだりしなけりゃいいことなのよ。コソコソ隠したりするから探りたくなるんでしょ?」


「いかにもそうだ」

 とりあえず同意しておく。


司馬懿しばいはその女の方に参ってる訳か。……いやおめー虎みてえな空気出すなよ」


「玉の輿っていうなら絶対あいつの方よ。司馬仲達なんて、曹操が実権を握ってた時は遠ざけられて、辺境に赴任してたくらいなのよ⁉ 誰もあいつと付き合い持ちたいなんて思ってなかったわ。司馬家は確かに名門よ。あいつの兄弟はみんな取り立てられてたけど、司馬懿は曹操には嫌われたんだから。

 なのに赤壁せきへきに負けて曹丕そうひに実権が移るとなった途端、あんな素性の分からない女が出て来て! 財産目当てに決まってるじゃ無い! 大人しそうな顔してるけど絶対企んでるのよ」


「おお、分かった分かったお前の怒りは分かったから。もっと詳しくその【陸佳珠りくかじゅ】って奴のこと話してみろ。言っとくが俺は呉の女のことについては詳しいぜ。そんな美人なら評判になってるかもしれねえから、もしかしたらぴんと来てねえだけで聞いたら分かるかも」


「……。急に現れたのよ。しかも曹丕殿下の正妻である甄宓しんふつ様の、どうやら袁家時代の侍女だった、らしいんだけど……」


「甄宓つったらあの絶世の美女とか名高い、袁家の……袁熙えんきとかいう奴の妻で、曹丕そうひに略奪された女だろ」


「あら随分詳しいじゃない」

「詳しいぜ。商人は耳聡くねえと駄目だからな」


甄宓しんふつ様の侍女にしてもおかしいわよ。現れるのが今なんて。あの方は慈悲深い方だから、袁家が襲われた時に逃げて苦労して来た娘、なんて言われて取り立てたに違いないわ」


「だけど甄宓がそいつを知ってるなら別に素性不明じゃないだろ」


「……。確かにね。確かにあの方は陸佳珠りくかじゅを知ってたわ。

 でも司馬仲達しばちゅうたつが甄宓様にあの女を侍女として取り立てるよう、お願いした可能性はある」


「しかし司馬懿も相当な切れ者だって俺は聞いたぜ。

 そんな素性の知れない女を容易く迎えるもんかね?」



「――女嫌いなのよ」



 張春華は言った。


「だれが……司馬懿か?」

 彼女は頷く。


「身の回りの世話をさせる女も、今まで雇ったこともない男なの。

 婚姻も元々自分で決める気も無く、全て曹丕殿下にとって都合のいい政略的に価値ある家柄の娘を、淡々と貰うつもりだったの。

 ……司馬仲達が自分で選び、執着した女はあいつが初めてよ」


 怒りを押し殺した低い声で張春華ちょうしゅんかが言う。

 単なるこいつの性格なのかもしれないが、この様子だと相当司馬懿が真剣にその女とのことを考えていそうな雰囲気がする、と祖鑑は思った。


「何者なんだ?」

 率直に聞いてみる。


「分からない。私も色々と情報を探る手段は持ってるのに、この女のことは探れなかった。だから魏の出身では無いのかもしれない。呉の暗殺者かも。剣をかなり扱うと仲達が言ってた」


「暗殺者ねえ……。司馬懿はそんなあっさり女の暗殺者を懐に入れる馬鹿なのか?」


「だから司馬懿も偏屈な変わり者なのよ! 自分に愛想良く微笑む女よりも自分に突然斬り付けて来るような女を『面白い奴め』なんて言って気にするような変な男なのよ!」


「おめー本当に司馬懿が好きなのか? つーか今、一瞬入ったの司馬懿の真似か?」


「好きじゃ無いわよ! あいつは小さい頃から異才で司馬家の中では一番出世しそうだったから見込んでやってただけよ! 小さい頃から変わり者って評判だったのを私が気にせず付き合ってあげて来たというのに……腹立つ男なのよ!」


「そいつの容貌はどんな感じだ。凡庸ってわけじゃないんだろ。目の色は」


「……でも別に華やかな美人って訳じゃ無いわ。あんまり喋んない、暗い女よ」

「おお。分かった分かった。そんで目の色は」


「さあね。まあ……薄っぽい黄色だったかしら。ちょっとは珍しいかもしれないけど、武芸以外楽も花生けも出来ない女よ。あんなのが司馬懿の正妻になったら笑いものになるわ」


「髪はもしかして、栗色っぽい色か?」

 張春華ちょうしゅんかは振り返る。


「……あなた……なんかその女のこと知ってるの?」

「……どうかな。見かけたことがあるような気はするが。確信はねえ」


 祖鑑そがんは含んだ。

 ようやく手がかりを掴んだ。


「お嬢。俺はこれから涼州に商いに行くんだよ。

 さっきも言った通り、俺は呉に一応屋敷はあるが各地に館は持ってる。

 呉が廃れれば他のどこかに行くし、俺が呉に居を構えてる理由は土地が気に入ってるからだ。女もな。忠誠心とかじゃねえ。元々の故郷でもねえし」


 顎で示すと、船の上の女たちが「祖鑑さまぁ~」ときゃあきゃあ楽しそうに手を振っている。


「祖鑑っていうのが貴方の名前なのね。呉の孫家とは本当に関わりないの?」

「ねえよ。っていうかむしろ元々今の孫家の長である孫権そんけんの、兄の孫策そんさくとは俺は敵対勢力だったくらいだ」


「あらそうなの」


「おお。まあでも江東こうとうを孫家が押さえてからは、お互い干渉せず上手くやってるだけでな。建業けんぎょうに屋敷がある。

 どうだ。あんたの所も武器商なら、江東の荷を俺から買ってみないか?

 こっちでもその女のことはちっと調べてやるよ。

 まあ俺の見当違いかもしれんが、見目のいい女なら、女を買ったり敵に送り込んだりする商売ってのもあるんでね。情報はその荷と共に送ってやる」


「言っとくけど、両取引はしないわ。呉の賊と取引なんかしてるって知られたら、曹丕殿下に父がどんなお咎めを受けるか分からないし」


「気に入ったものだけ個人としてあんたが買えばいい。

 言っただろ。俺はな、もうすでに財はあるんだよ。

 しかし今、江東の物は魏じゃ希少なはずだ。価値は高いはずだぜ。

 俺としても江東こうとうの物が魏で評判になるのは得だからよ。

 送った荷はあんたがそっちで捌けばいいさ。

 それに……もしその女が呉と関わりがあるなら『呉からの品だ』って贈ってやったら、案外真っ青になるかもしれねえぞ」


 不満げだった張春華ちょうしゅんかが目を瞬かせた。


「確かにそうね。それは揺さぶりを掛けられるかもしれないわ」

「だろ? そいつがもし呉の間諜だったら、俺にあんたが教えてくれればいい」

「どうするの?」

「いやどうもしねえ。司馬懿しばいの側に女の間諜がいるんだなって思ってニヤニヤするだけだ」


 本当に、この男は呉の行く末とは何にも関わりの無い男らしい。

 張春華はあまりに低俗なこの取引を気に入った。お遊びのようなものだ。


「いいわ。呉からの贈り物であの女をビクビクさせるのは楽しそう。

 荷は、女物の衣や装飾品にして下さる? それなら私が興味を持って集めさせたって、父にも言い訳が出来るから」


「よし。んじゃそういうことだな」


「荷を楽しみにしてるわ。別に私の素性は貴方に対する秘密って訳じゃないから名乗っておく。私は張春華。河内かだいの張家の娘よ」



張春華ちょうしゅんか。覚えておく。じゃあな」



 祖鑑そがんは歩き出した。


「そうだ」

 張春華は呼び止めた。


「あいつの素性を探る手がかりになるといいけど。

 身寄りの無い戦災孤児とか言ってたけど、あの女には一人弟がいる。

干将莫耶かんしょうばくや】は司馬懿がその弟に与えたわ。笑えるでしょう? 無位無冠よ」


「なんでそいつに与えたんだ?」


 昂揚を押し隠し、何気ないように祖鑑は聞いた。

 たちまち張春華が目を細める仕草をしたので「ああ」と苦笑する。


「姉に惚れてるからか。

 司馬仲達しばちゅうたつ、割と情に流されやすい奴なんだな。

 弟の名前は?」



「なんだったかしら……弟の方には一度も会ったことないからうろ覚えよ。

 確か……――陸伯言りくはくげん、だったと思う」





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