第10話 攻略マニュアルの誕生
八月中旬。川崎市は連日の真夏日で、朝から強い日差しが、アスファルトに照りつけていた。
田中修一の夜中の秘密の活動は終盤に突入していた。アパートの共有花壇は、彼の奮闘によって、かつての植物の墓場から、生命の息吹を取り戻しつつある「更地」へと姿を変えていた。
しかし、彼の頭の中は少しばかり混乱をきたし始めていた。
「……ええと、ミニトマトの追肥は今週の金曜。鈴木さんちのミニバラは、まだ水のやりすぎに注意。一階の学生のサンセベリアは……あれ、葉の埃を拭くのは、もうそろそろだっけ?」
彼の能力がもたらす「攻略情報」は、対象が増えれば増えるほど、その情報量も膨大になる。ベランダ菜園、アパートの住人からの依頼物件、そして広大な共有花壇。それぞれの土壌、日照条件、必要な栄養素。彼の脳内メモリは、嬉しい悲鳴を上げていた。
その日の深夜。いつものように花壇の手入れをしていた修一は、危うくミスを犯しかけた。ベランダのハーブ用に配合した、少し酸性の肥料を、アルカリ性の土壌を好むラベンダーの苗の近くに撒きそうになったのだ。
「危ねえ……」
寸前で気づき、彼は冷や汗を拭った。このままでは、いつか致命的なエラーをやらかしてしまう。せっかく蘇りかけた命を自分の管理ミスで枯らしてしまうことだけは絶対に避けたかった。
翌日、修一は半年ぶりに文房具店にいた。
彼が購入したのは、一冊の分厚いリングノートと、数色のボールペン。自室に戻ると、彼は机の前に座り、ゲームの攻略サイトを立ち上げる時のように、几帳面な手つきで最初のページを開いた。
表紙の裏に、彼は少し照れながら、ペンでこう書き記した。
『リアル育成ゲーム 攻略マニュアル Ver.1.0』
それは、彼が自分の能力と、この新しい日常を、自分なりに体系化しようとする試みの始まりだった。
最初のページは、もちろん「共有花壇」だ。彼は花壇の簡単な見取り図を描き、日当たりの良いエリア、西日が強すぎるエリア、水はけの悪いエリアなどを色分けしていく。
「エリアAは日照◎、乾燥に強いマリーゴールド、サルビアが最適」
「エリアBは半日陰、水はけ△。腐葉土を追加投入後、ギボウシなどを試験的に配置」
彼のペンは止まらなかった。頭の中にある膨大な情報を整理し、書き出し、最適化していく。その作業は複雑なゲームのシステムを解明していく時の興奮と、よく似ていた。
次のページには、「依頼クエスト」と見出しをつけた。
・鈴木家のミニバラ:初期デバフ『根腐れ』。特効薬は『乾燥』と『風通し』。
・佐藤君(学生)のサンセベリア:環境『日照不足』。耐性持ちのため、管理は容易。注意点は『水のやりすぎ』によるHP低下。
一ページ、また一ページと、彼の功績がノートに刻まれていく。それは、単なる記録ではなかった。彼が現実世界で戦い、勝利し、手に入れた経験値の結晶。彼だけが編集できる、唯一無二のデータベースだった。
書き終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
修一は完成した数ページを眺め、深い満足感と共に息をついた。
もう、彼は、ただ不思議な力に振り回されるだけの男ではない。
このノートは彼が賢者(ゲームマスター)として、自分の小さな世界を管理し、統治していくための最初の魔法書(グリモワール)となったのだ。
滅亡するだけだと思っていた人生で、まさかこんな攻略本を作ることになるなんて。
修一は、フッと自嘲気味に笑うと、愛おしそうに、そのノートの表紙を撫でた。
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