第9話 母のサイレントエール

 田中春子は、年相応に眠りが浅い。

 ここ一週間ほど、息子の修一の部屋から、夜中に物音がするのに気づいていた。床板の軋む音、玄関のドアがそっと開閉される音。最初は胸がざわりとした。あの子が何か思い詰めて、夜中にふらふらと出歩いているのではないか。悪い考えばかりが頭をよぎり、春子は浅い眠りの中で、幾度となく不安に身をよじった。


 しかし、数日も経つと、息子の変化が別の形で見えてきた。

 夜中の活動から戻った修一は、ひどく疲れているようだったが、その顔には以前のような澱んだ絶望の色はなかった。むしろ、何か大きな仕事をやり遂げた後のような、静かな充実感が漂っている。そして、それと時を同じくして、アパートの住人たちが、あの荒れ果てていた花壇の噂をするようになった。


「夜中のうちに、誰かさんが手入れしてくださるのよ」

「まあ、素敵ねえ」


 春子は、すべてを察した。

 ある夜、彼女は思い切って、そっと寝室の襖を開け、暗い廊下の先にある玄関を見た。ちょうど、修一が音を立てないように、泥のついたスニーカーを脱いでいるところだった。その黒いジャージと汗に濡れた背中。その姿は春子の記憶にある、若い頃の夫の姿に少しだけ重なって見えた。

 春子は音を立てずに襖を閉めた。

 声をかけるべきではない。そう直感的に思った。

 あの子は今、自分だけの力で何かを必死に成し遂げようとしている。長い間、閉じていた心の殻を、ようやく内側から叩き始めたのだ。ここで自分が声をかけてしまえば、その繊細な殻は、驚いてまた固く閉じてしまうかもしれない。

 彼女にできるのは、ただ一つ。信じて見守ることだけだった。


 翌日の深夜。

『ガーデニングクエスト』を終えた修一が自室へ戻ろうとすると、台所の冷蔵庫の扉に、一枚のメモが貼られていることに気づいた。

『麦茶、冷えてます』

 拙い、丸文字。母の字だ。

 おそるおそる冷蔵庫を開けると、ガラスのポットになみなみと注がれた、琥珀色の麦茶が冷えていた。修一は乾ききった喉をごくりと鳴らす。コップに注いで一気に煽ると、冷たい液体が火照った体に染み渡っていった。火照っていたのは、八月の熱帯夜と、肉体労働のせいだけではない。見つかってしまったかもしれない、という緊張のせいでもあった。


 次の日も、その次の日も。

 修一が夜中の作業から戻ると、必ず冷蔵庫には冷えた麦茶が用意されていた。

 そして、彼が「戦闘服」として使っている黒いジャージとTシャツは、翌日の夕方には必ず、綺麗に洗濯されて彼の部屋の前に畳んで置かれていた。


 春子は何も言わない。修一も、何も言わない。

 だが、彼には分かっていた。母は、すべてを知っている。その上で、何も聞かずに、ただ静かに自分を応援してくれている。

 それは、言葉以上に雄弁なエールだった。

「がんばれ」「すごいね」という言葉よりも、ずっと深く、彼の疲れた心に染み渡った。


 ある日の深夜。麦茶を飲み干した修一は、固く閉ざされた母の寝室の襖に向かって、誰にも聞こえないような小さな声で、ぽつりと呟いた。

「……ありがとう」


 彼の秘密のミッションは、いつの間にか、母との二人だけの、言葉のない共同作業に変わっていた。

 一人ぼっちだと思っていた滅亡への道に、一番近くで、ずっと寄り添ってくれる人がいる。

 修一は、その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

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