第8話 謎の庭師とアパートの小さな変化
田中修一の『真夜中のガーデニングクエスト』は、それから毎晩のように決行された。
昼間は体力の回復と情報収集(ネットでの土壌改良の勉強)に努め、住人たちが寝静まった深夜に行動を開始する。その姿は、さながら高難易度ダンジョンに挑むソロプレイヤーだった。
全身の筋肉は悲鳴を上げ、指先は土で黒く染まった。だが、不思議なことに、朝、ベッドから起き上がれないほどの疲労を感じることはなかった。むしろ、心地よい疲労感が彼の体を満たしていた。
修一の地道な活動は、数日も経てば、誰の目にも明らかな変化として現れた。
最初に気づいたのは、早朝にパートへ出る隣の鈴木さんだった。
「あら……?」
ゴミ捨て場の脇にある花壇。昨日までは、ただの雑草地帯だったはずだ。それが今朝は、明らかに人の手が入っている。うず高く積まれていたゴミは消え、密生していた雑草は刈り払われ、黒い土が顔を覗かせていた。
その日の昼前、アパートの主婦たちが井戸端会議でその話題に触れた。
「ねえ、見ました? 花壇」
「見たわよ! びっくりしたわ。いったい誰が……」
「大家さんが、業者でも頼んだのかしら?」
「いいえ、昨日大家さんに会ったけど、何もおっしゃってなかったわよ」
誰も、あの無愛想で引きこもりがちだった二階の田中さんの仕業だとは夢にも思わない。憶測は次第にファンタジックな方向へと舵を切っていった。
「夜の間に、小人さんでも出てくるのかしら」
「『謎の庭師』ね。なんだか素敵じゃない」
その会話を修一は自室の窓から、息を潜めて聞いていた。
心臓が誇らしさで大きく脈打つ。直接褒められるのは気恥ずかしいし、怖い。だが、こうして陰から自分の仕事の成果を眺め、住人たちの嬉しそうな顔を見るのは、格別な達成感があった。ゲームで難関クエストをクリアし、『ワールドメッセージ』に自分の名前が流れるのを眺めている時の気分に似ていた。
謎の庭師の出現は、アパートの空気に、小さな、しかし確かな変化をもたらした。
これまで、住人たちはすれ違っても、軽く会釈をする程度。どこか、よそよそしい空気が流れていた。だが、花壇という共有の「謎」が生まれたことで、自然と会話が生まれるようになったのだ。
「今日も、少し綺麗になってましたわね」
「ええ。次は、どんなことをしてくださるのかしら」
おはよう、こんにちは。そんな挨拶の声が、以前よりも少しだけ大きくなった気がした。
修一のクエストは次のフェーズへと移行していた。
雑草とゴミを取り除き、固くなった土をすべて掘り返す。その作業は一週間以上かかった。そして今夜、彼は自分のベランダから、大切に育てた肥料を混ぜた土と、いくつかの花の苗を運び込んでいた。
彼の能力(スキル)が告げている。この土には、日当たりに強く、乾燥にも耐える花のポテンシャルが眠っている、と。
午前三時。
月明かりの下、修一は掘り返したばかりの柔らかい土に、最初の苗を植えた。それは、どこにでも売っている、ありふれたマリーゴールドの苗だ。
だが、今の彼にとって、それはただの苗ではなかった。
荒廃した大地に再び命を灯すための希望の光。
滅亡するだけだと思っていた男が、この世界に何かを遺そうとする、最初の意思表示。
修一は土のついた手のひらで額の汗を拭った。
彼の秘密のミッションは、まだ始まったばかりだ。
この小さな苗が、アパートの住人たちの心を、そして彼自身の未来を、少しだけ明るく照らすことになるのを、彼はまだ知らない。
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