第7話 真夜中のガーデニングクエスト

 以前は、ただの汚い場所としか認識していなかった。

 だが、一度「未開拓エリア」として意識してしまうと、アパートの共有花壇の惨状は修一の心をチクチクと刺激し続けた。

 そこは、もはや花壇ではなかった。腰の高さまで伸びた雑草が密林を形成し、土は固くひび割れ、コンビニ弁当の容器や空き缶が、まるで墓標のように突き刺さっている。植物たちの墓場。修一は、この場所を見るたびに、言いようのない焦燥感に駆られるようになっていた。


 ある日の昼下がり、ベランダからその花壇を見下ろしながら、彼は試しに能力を集中させてみた。すると、頭の中に流れ込んできたのは、驚くほど輝かしいビジョンだった。


【対象:アパート共有花壇】

【状態:破棄(ソイルコンディション最悪、生命活動の痕跡なし)】

【根源的ポテンシャル:本来は四季折々の花々が咲き乱れる場所。住人たちの心を繋ぐ、地域の癒やしの中心となりうる。】


「……癒やしの中心」

 修一は、その壮大な言葉を反芻した。今のこの惨状からは到底信じられない未来図だ。しかし、彼の能力が示すビジョンは、これまで一度も外れたことがない。

 やりたい。この花壇を本来あるべき姿に蘇らせてみたい。

 心の奥から、マグマのような熱い衝動が突き上げてくる。だが、その衝動を分厚い氷の壁が阻んでいた。

 ―――恐怖だ。

 昼間から、アパートの住人全員が見ている前で、一人で花壇をいじり始める勇気など彼には欠片もなかった。「何やってるんですか?」「偉いですねえ」。そんな何気ない言葉の集中砲火を浴びることを想像しただけで、心臓が縮み上がり、呼吸が浅くなる。無理だ。絶対に無理だ。


 その夜、修一は自室のベッドの上で、膝を抱えてうんうんと唸っていた。

 熱い衝動と、冷たい恐怖。その間で、彼の心は引き裂かれそうになっていた。どうすればいい。諦めるしかないのか。

 その時、彼の脳裏に長年慣れ親しんだゲームのセオリーが閃いた。

 ―――真正面から攻略できない強敵(クエスト)は、どうするか。

 答えは一つだ。

「……ステルスミッション」

 そうだ。誰にも気づかれずに、目的を遂行すればいい。

 修一はベッドから跳ね起きた。そうだ、これはゲームだ。俺に与えられた、新しいクエストなんだ。タイトルは、『真夜中のガーデニングクエスト』。ミッション内容は、「アパートの住人に気づかれることなく、荒廃した花壇を再生せよ」。

 そう考えた途端、氷の壁に、一筋の亀裂が入った気がした。


 午前二時。アパートの全ての部屋の明かりが消え、深い静寂に包まれるのを待って、修一は行動を開始した。黒いTシャツに黒いジャージ。軍手とゴミ袋、そして小さな移植ごて。まるで、夜陰に紛れる隠密(ニンジャ)のような出で立ちだ。

 彼は誰にも気づかれないよう、抜き足差し足で階段を降り、目的の花壇の前に立った。

 夏の夜の生温かい空気が彼の頬を撫でる。遠くで虫の音が聞こえる。心臓が、どくどくと高鳴っていた。


 最初の任務は、ゴミ拾いと雑草の除去。最も地味で、最も過酷な作業だ。

 修一は腰をかがめて、まずは目立つゴミを拾い集めた。次に、深く根を張った雑草との格闘が始まる。53歳の運動不足の体には想像以上に堪える作業だった。少し動いただけで息が上がり、汗が噴き出してくる。

(きつい……)

 何度も心が折れそうになる。だが、これはクエストなのだ。レベル1の主人公が、ひたすら経験値を稼ぐための「狩り」なのだ。そう自分に言い聞かせ、彼は黙々と手を動かし続けた。


 一時間ほど経っただろうか。

 花壇のほんの一角だけだが、雑草がなくなり、黒い土が顔を覗かせた。その土の中から、修一は、錆びて文字の消えかけた小さなプレートを掘り当てた。かろうじて、「クイーン・エリザベス」と読める。昔、ここに美しい薔薇が植えられていた証だった。


 空が白み始める前、修一は全ての痕跡を消して、そっと自室へ戻った。

 体は泥のように疲れ、腰も背中も悲鳴を上げていた。だが、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、高揚感さえあった。

 窓から、自分が切り開いた、畳一畳分ほどの黒い土を見下ろす。

 それは、偉大なクエストの確かな第一歩だった。

 彼の秘密のミッションは、こうして静かに幕を開けた。

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