第2話 芽吹く不安


 数日が過ぎ、穏やかな眠りを重ねたメルティナは、穢れも晴れ、心まで伸びやかな心地で目を覚ました。

 妃として朝の謁見の場に同席するのが、日課である。常ならば、玉座にて皇帝の隣に控え、黙しているだけで良い。しかし、この日は少し様子が違った。


「メルティナ。あなたの目から見て、どう思う?」


 皇帝自らに意見を求められたのだ。


 ザンドリスに常駐している手の者の報告によると――メルティナが断罪されて以後、ザンドリスでは長雨が続き、各地で穀物の生育が芳しくないそうだ。それにも関わらず、国王マルケス三世は目立った対策を講じていないという。


「神獣ナィナ様のご様子から天候の変動を読んで、陛下にご進言するのも、聖女の務めでございました。わたくしが最後にナィナ様にまみえました折にも、冷夏の兆しは表れ始めておりましたが……」


 ナィナの被毛がふっくらと生え変わっていたのを、メルティナはその目で確かめている。


「水晶宮に聖女は不在とあれど、わたくしの後継の者たちならば、必ず王に奏上しているはずです」

「ならば、マルケスはなぜ動かぬ?」

「……認めてはならないのでしょう」


 ナィナの時季外れの換毛をマルケスは、聖女の責務放棄によるものとして、メルティナを断罪した。今更、水晶宮からの奏上を受け入れては、メルティナに責を負わせた正当性が揺らいでしまう。

 同時に、民からの訴えを安易に受け入れれば――なぜ予兆を読めなかったのか、聖女を追放しなければこうはならなかったのではないか、との詰問を避けられない。


「マルケス王と、さる御方にとって……真実を隠し通すことは、民の安寧よりも優先されるものなのでございましょう」

「愚かしい」


 じっくり深い息を吐き、アルベリオスは頬杖をついた。


「同盟国として、ザンドリスへの支援に臨まれますか」

「いや、現段階でこちらから手を差し伸べても、マルケスの猜疑心を煽るだけだろう。素直に受け入れはしまい」


 執政卿の言に、彼は冷静に答えを返す。メルティナも、目で静かに同調した。


「矜持の高いマルケスが正式に救援を求めてくるとしたら、いよいよ事態が逼迫してからだろう。その時では遅すぎる」


 秋に実りがなければ、冬を越せない。長い冬は貧しき者から、命をふるいに掛ける。何千、何万という民が雪の下に埋もれていくことだろう。

 メルティナも、すでにマルケスに情はない。だが、これまで仕えてきたナィナの住まう地が、愛した母国とその民が――苦しむ未来を思うだけで胸を締め付けられた。


「ふむ……メルティナを迎えて、ひと月か。ここは、妃のつつがない様子を報せるとともに、表敬訪問の形で手を回してみるか」


 アルベリオスは迷いなく、決断を固めた。彼の意志は即座に朝廷に浸透し、議題はザンドリス訪問に向けての調整へと切り替えられる。

 同行者に、捧げ物の選定、船の手配などがあっという間に調えられる様子を、メルティナはわずかに不安げな表情で見つめていた。すると、アルベリオスが見透かしたように穏やかな声で、語りかけてきた。


「ザンドリスに帰りたいという顔ではないな。安心していい。あなたには、ここに残ってもらうつもりだ」

「よろしいのですか」

「あなたには、再会を懐かしみたい者もいるかもしれないが、マルケスが何を企むか知れたものではないからな。あの下卑た目に、あなたを一瞬たりとも晒したくはない」


 鋭く、熱を帯びた視線からメルティナはそっと目を伏せる。


「……ありがとうございます。ご出立はいつになりますか?」

「この場がまとまり次第、帝都を出て、各所との調整に移る」

「そんなにお急ぎで――」


 今夜から、アルベリオスがいない――。それだけでメルティナは、腹の底が凍えたように重たくなった。


(もし、皇帝陛下の留守に乗じて、あの男が何か仕掛けてきたら……? わたくしは逃れられる? まだ子を授かってもいないのに)


 痛みは遠のいたはずなのに、そうしないと不安で、腹に手を当てる。こんな形で彼の不在を心細く思う時が来ようとは、思いもしなかった。


「……どうか、お気をつけて。お帰りをお待ちしております」


 アルベリオスはメルティナの手を引き寄せ、そっと唇を寄せた。


「あなたを腕に抱くのは、帰城するまでの楽しみに取っておこう。寝所を温めて待っていてくれ」


 ぱっと、頬紅をひと刷毛払ったように、メルティナの頬に赤みが差した。

 小さく頷くように俯く所作で、玉座の間にはふわりと柔らかな空気が満ちる。夫婦の絆を感じさせる一幕に、重臣たちも思わず目を細めた。


(あああ、また見栄を張って血迷った言葉を吐いた気がする……! メルンの赤い顔……怒り呆れていたんではないだろうか)


 諸々の采配を終えて立ち上がったアルベリオスは、耳まで赤くなった横顔を隠すように早足で退出する。

 その背を見送りながら、「まぁ、それも陛下らしい」と目だけで笑ったのは、ヴァルただ一人だった。



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 ふっ……と息を吹くと、メルティナの指先から細かな粉が舞った。

 マホロが横からのぞき込み、柔らかな声を落とす。


「とても良い形になりましたね」


 メルティナは手の中を見つめて、安堵の笑みをこぼした。

 工房に通い始めた当初、メルティナの手の中には、無骨な蛍光石の礫が握られていた。マホロの手解きのもとヤスリをかけた石は、日ごとに角が取れて滑らかな円錐へと近づいている。

 アルベリオスの出国とともに始めたので、研磨だけで二十日を要した。


(陛下の船も、そろそろザンドリスにお着きになる頃でしょうか)


 心を許すことを禁じながらも、彼のことが全く心配でないわけでもない。無心で石を研くひとときが、虚ろな心を静かに和らげてくれていた。

 自分の手で研いた石を、満ち足りた思いで見つめる。店に並んだものとは比較にならないほど単純な形だが、均等に先細りさせるのはなかなか難しかった。

 だからこそ、マホロに褒められたのが素直に喜ばしかった。


「奥様は本当に筋がよろしいですよ。基本の形がとても良くできておりますので、次はもう少し複雑なものに挑戦いたしましょうね」

「ありがとうございます。ところで、マホロ師匠せんせい。こちらの形が基本とは、何か謂れのあることなのでしょうか。わたくしはまだ、タルヴァニアについて学びが浅いので」


 牙のようにも見える尖った石を摘んで、マホロは光に透かす。


「これは、神話に登場する聖獣様の角を模したつもりなのです」

「聖獣様というと、一角の竜のお話でございますか?」

「そう、聖なる角で魔を祓うと言われた、かつてのタルヴァニアの守神様です。その縁起を、わたしが勝手にかついでいるだけなのですが」

「タルヴァニアの文化というわけではないのですか」

「ええ。ですが、聖獣様を模した護守などは、昔からありますよ」


 滑らかに研磨された蛍光石を、満足そうにメルティナの手に返し、マホロはしっかりと握らせる。


「この地には長いこと――ベルネルという、それは恐ろしい魔のものが巣食い、怯えながら暮らしてきましたから。人々の手が、魔除けの加護に伸びやすいのは土地柄かもしれませんね」

「魔のもの……ベルネル」

「ああ、怖がらせてしまったかしら。心配いりませんよ。陛下の手で封じられ、もう悪さはできませんから」


 蓮池の奥にある禁足地が頭に浮かぶ。メルティナは静かに頷き、研ぎ上げた石を布に包んだ。

 

「では、本日はこのへんで。また、お待ちしております」

「はい。ありがとうございました」


 次の約束を取り付け、メルティナは侍女や護衛らを連れ立って工房を出る。

 身分を隠すための装いにも、皆すっかり慣れたものだ。周りに馴染むように、ラキァが率先してそうしてくれるからか、この時間ばかりは他の侍女たちも、身分の垣根を越えたお喋りに付き合ってくれる。

 町遊びで立ち寄った店だとか、工房通いの間に咲き始めた花だとか――。眺める景色の中に少しずつ、メルティナにも馴染みの光景が増えていく。

 これまでの人生で得られなかったもので、日々が彩られていくのを、メルティナは確かに感じていた。


(与えてくださったのは、他でもないアルベリオス様だわ……)


 そして今この時も、メルティナの思いを汲み、マルケスと対峙しようとしている。


お会いした時のあの人は、魔に魅入られていたとでも言うのかしら。今の彼の真心に触れるたび、わたくしは……怖い。自分が、とてもはしたなく思えて……)


 メルティナは懐にしまった円錐状の石を、服の上から撫でる。思いの行方が見えずとも、せめて無事を祈る心が、海の向こうへ届くように願った。


 通りには、昼下がりの穏やかな時の流れが満ち、従者たちもどこかゆったりした足取りで帰路を辿っていた。

 そんな折、ふとラキァの細い目が見開かれ、足が止まった。


「んまっ! 今日はチットテッタの看板が出てるわ!」


 赤い屋根の軒下に、小さな看板が揺れているのを、侍女たちは瞳を輝かせて眺める。

 なんでも一度食べたら病みつきになる菓子が並ぶそうだが、完全に店主の気まぐれ営業で、なかなか買えないのだという。今もすでに、三軒先まで行列が続いていた。


「先日は閉まっていて残念だったの。エティルにぜひ食べてもらいたかったのよ! ああっ、でも今から並んだら、帰りが遅くなってしまうわね」

「でしたら、ラキァさん。わたしが買って参ります。皆様は先にお戻りください」


 言うより早く、侍女の一人が駆け出す。ラキァより年上だが、小柄な体を元気いっぱいに翻して動く働き者だ。


「シーラ、本当にいいの?」

「もちろんです!」

「それなら……自分のぶんも忘れずに買って来るのよ。取っておきのお茶を用意して、待っているからね!」

「はい、ありがとうございます!」


 メルティナのためにと張り切る彼女の背中を、ラキァは押してやるつもりで送り出した。

 しかしその日、シーラが城へ戻ることはなかった――。




 ***




「失礼、落としましたよ」


 列に並んでいたシーラは、後ろから若い男の声が掛かって、どきりとした。皆といる時は平気になったつもりだったが、一人の時に異性がそばに来るのはまだ恐ろしい。

 切迫しそうな息を抑え、視線だけ後ろにやる。すると、手巾を拾い上げる手が目に入り、シーラはほっとして振り返った。


「ありがとうございます」


 何気なく手を伸ばしかけたが、ふと覚えた違和感に動きが止まる。ありふれた白い手巾だが、自分のものとは縁取りが違って見えた。

 引っ込めかけた手に、手巾を持った手が追い縋る。突然手を握られたシーラは、内心では叫びそうだった。仮にも皇妃の侍女として必死でこらえ、気丈に振る舞おうと努める。


「申し訳ございません、わたしのものではなかったようです」

「ああ、確かに手巾については人違いです。騙して申し訳ありません。本当は、あなただから声を掛けたのです」


 男が、かぶっていた帽子を取った瞬間、シーラの体は凍りついた。

 眩いばかりの金髪が輪郭を柔らかく縁取り、唇には上品な微笑みが浮かぶ。それは天の与えた宝とも呼ぶべき、美貌だった。翠の眼差しは、まっすぐにシーラを射抜いて離さない。


「その顔、やっぱり君だ。亡霊を見ているわけではないよね――火事で焼け死んだと聞かされたけれど」


 男の声は甘やかで、懐かしむように目を細める。


「元気そうで安心したよ。忘れられなかったんだ。君のその白い喉――」


 シーラの顔から血の気が引いていく。呼吸の乱れた喉が、喘ぐように震えた。


「痣はすっかり消えてしまったんだね。首飾りみたいで似合ってたのに。そうだ、また付けてあげようか。あれをすると君も……喰いつくように悦んでいたじゃないか」


 首へ伸びてくる手に、シーラは咄嗟に後ずさった。しかし、体に力が入らず、足がもつれて転んでしまった。


「おっと、大丈夫? 怪我をしてしまったね。どこか座れるところへ行きましょうか」


 シーラは必死に声を絞ろうとした。けれど、喉の奥が恐怖に震えて、ただかすれた息が漏れるばかりだ。

 彼女の腕を支える美男の仕草は実に丁寧で、見物していた人々の目には、気分を悪くした女性を気遣う紳士の姿にしか映らなかった。

 彼に付き添われて歩み去るシーラの姿を、誰一人として怪訝に思わない。寧ろ「羨ましい」とでも言いたげに囁く声が、行列のあちこちで小さく弾んだ。


「再会が嬉しくて、声も出ないのかな――でも大丈夫」


 囁きは、耳朶に吸い込まれるように甘い。


「君の声は、わたしが一番よく知っている。たっぷり聞かせてもらうよ。君の新しい飼い主や、さっき一緒にいたご婦人のことも、全部――ね」


 にこやかに綻んだ笑みが、シーラの視界を黒く染め上げた。


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