三章 引かれ合う魂

第1話 穢れなき安らぎ




 夜風に身を晒し、メルティナはぼんやりと窓辺にもたれていた。

 水晶の蓮池が魔光石に照らされて、絢爛な煌めきを放つのが遠くに見える。しかし、メルティナの目が惹かれるのは、掌の中にある柔らかい輝きのほうだ。

 掌にお座りした小さなカエルが、青に白にと、静かに瞬く。穏やかな光を撫でていると、心が慰められる思いがした。


 それでも、ずん――と重たい痛みは胎の奥から湧き出て、やむことはない。夕刻から、下腹に血の穢れがある。月のものが巡り来たのだ。

 痛みと煩わしさに加え、子を宿すという目的を果たせなかった焦燥で、気持ちが塞いでしまう。


 ため息を押し返すように吹き込んできた涼風に、長い髪がさらわれる。粟立つ肩を撫で、窓を閉めるのと時を同じくして――。

 寝室の扉が開き、アルベリオスが姿を現した。

 メルティナは驚きを露わに見つめ返す。


「なぜ……ラキァから伝わってはおりませんか」

「ああ、聞いている」

「それならどうして……いらっしゃったのですか?」


 しくしくと痛む下腹に手をやって、メルティナはうつむく。長い睫毛が目元の翳りを濃くするばかりか、下から照らす蛍光石の光も相まって、頬を蒼白に見せた。緊張を張り詰めさせた指先も、細かに震えている。

 その仕草を、アルベリオスは寒がっているように受け取った。ひょいと彼女を抱き上げると、寝台へ連れていく。


「いけません。尊いお身体が穢れます。共寝はどうか、ご容赦ください」


 今夜は絶対に目にするはずもないと思っていた金の瞳に、メルティナは戸惑いを隠せない。体は無意識に強張り、ささやかながらも抵抗した。


(そんな、どうして? 月に数日のこの時ばかりは……、あの男でさえ忌避して顔を見せなかったというのに……)


 脳裏に、暗澹たる記憶と沈香の香りが、どろりと蘇る。

 メルティナが血の匂いを纏っている間、ルーヴェントはわかりやすく顔を見せなかった。その放置と沈黙が、苦痛から解放される貴重な時間であった。

 それと同時に、ルーヴェントの身勝手さは、メルティナの心に、虚しく悲しい思いを刷り込んだ。

 男が女のもとに足を運ぶ目的など、ただ一つしかないのだと。


 困惑する間に背は寝台に沈み、部屋の灯りが絞られる。メルティナの顔はますます青くなるばかりだ。


「お願いいたします。どうか、ご容赦を……」

「酷い顔色だ。楽な寝姿勢など――こうしてほしいという望みはあるか?」


 出ていってほしいとは言えなかった。恐ろしさから、心を殺して恭順の盾を張る。


「陛下が、ご命じになるのなら……。穢れに触れずに、ご満足いただけるような何か――わたくしに出来得る努力は、させていただきますが……」


 声が震えるのは、寒さのせいではない。やっと気付いたアルベリオスは、しばし思いを巡らせてから眉をしかめた。


「……待て。わたしは何か、あなたを誤解させているか?」

「え……?」

「男ゆえに乏しい想像しかできないが、今は心身に不調が出やすい時期なのだろう? 侍女がいれば心配はないが、気になって様子を見に来たのだが……。かえって不安にさせたようだ、すまない」


 メルティナの肩まで毛布が引き上げられる。それが思いのほか温かくて、体の強張りも溶けるようにほぐされていく。


「体を冷やすのも良くないと聞くのに、髪までこんなに冷たくして……。今夜の風は常より冷たかっただろう。風上で突然の雨が降ったんだ」


 髪を梳くように触れるアルベリオスの指先からも、じわりと温かなものが流れ込んでくるようだった。

 初めから、一つも下心を持っていなかったのだと伝わる眼差しに、メルティナの警戒心は一瞬で周知へと振り切られる。


「申し訳ございません。わたくしはてっきり……夜伽にいらしたのだとばかり……」


 口に出すと、さらにいたたまれない気分だ。青ざめた顔から一転して真っ赤に染まった頬を、毛布の下に隠す。

 しかし、アルベリオスの視線は揺らがない。羞恥に堪えかねて縮こまるメルティナを、嗤いもしなかった。すべてを真正面から受け止めるように、金の瞳は彼女を映し続ける。


「肌を合わせるばかりが、夫婦ではない。あなたが不調の時こそ、わたしがそばにいて、一番に気付ける存在でありたい。心細い思いをさせたくはないんだ」

(この御方の心根は……なんと誠実で、真摯なのでしょうか……)


 たとえ、契約で結ばれただけの夫婦であっても、彼はいつだって、律義に伴侶としての責務を果たそうとしている――メルティナはまだ、そんな思い違いをしていた。


「陛下の貴重なお時間を、わたくしが取り上げるわけにはいきません」

「取り上げられてなどいない。わたしが望んで、あなたに捧げている」


 真っ直ぐな瞳に、メルティナは胸の奥が痛むような熱くなるような、強いざわつきを覚えた。

 まるで本当に偽りなく愛の言葉を囁かれているようで、心がついてこない。アルベリオスは仇敵だ――とどこかで警鐘が鳴っているのに、それを掻き乱すほど心臓の音がうるさかった。


「な、なにを仰いますか……そのようなお言葉は、わたくしには過ぎた言葉でございます」


 これ以上その眼差しに晒されていては、何かが壊れてしまいそうで、メルティナは逃げるように背を向けた。そして――それを追うように、背中からそっと抱きとめられる。

 腹の上に重ねられた掌は温かく、そこに込められた慈しみが、抗いようもなく伝わってきた。


(先刻まで、あんなに恐ろしかったのに、なぜ今はこんなにも安らかな心地で、横になれているのだろう……)


 彼から与えられる言葉や温もりの一つ一つが、心まで染み込んでくるのを、メルティナは否定できなかった。だが同時に、アズへの後ろめたさのようなものが、胸の片隅に疼く。


(今宵だけ……気持ちの弱っている今だけ、どうぞお許しください――)


 メルティナはナィナのように小さく体を丸める。そうすると温もりに丸ごと包まれて、守られている安心感が強まった。息が深くなるとともに痛みも和らぎ、やがて穏やかな眠りへと落ちていった。

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