第3話 ナィナの導き
旅程通りにザンドリスへ辿り着いた皇帝一行は、王城でマルケスの白々しい歓迎を受けた。
タルヴァニアからの友好の品々を前にしても、マルケスの表情は終始渋いまま――。慣例通りの挨拶を済ませるや、アルベリオスたちはさっさと客室へ通された。
「まぁ、断られなかっただけ良しとするべきだよねぇ」
「二度目はない――と悟ったのだろう」
「やだやだ、陛下ったら。初手でどれだけ怖がらせたんだか。渾身の悪い顔ってやつ、この目で見たかったな」
従者は皆下がらせて、ヴァルと肩を並べて寛いでいる時だった。予定にない訪いが告げられる。
程なく、酒肴を盆に載せた少女が畏まって入室してきた。赤毛の巻き髪と顔立ちにあどけなさの名残りが見えるが、佇まいは洗練された淑女のそれだ。
「マルケスが末子リオネッタにございます。この度は皇帝陛下御自ら御来訪くださいましたのに、歓待の宴すら催さぬ父の無礼、まことに失礼いたしました」
「いいや、わたしが無理を言って押しかけたのだ。王城への滞在を許していただき感謝申し上げる」
アルベリオスの応えを受け、王女リオネッタは後ろに控えた侍女たちをちらりと振り返る。小卓の上に彩りを凝らした肴を並べると、侍女たちはリオネッタを残して退室した。
リオネッタは少し固い息を吐き、酒器を掲げる。
「ささやかではございますが、酒席でおもてなしさせてくださいませ。さあ、杯を――」
「遠慮しよう」
差し出された盃を見もせずに、アルベリオスは静かに言い放った。
リオネッタが悲しげに睫毛を伏せる。
「……不遜な態度の王の娘では、信を得られませんか? 毒など入っておりません」
「どれどれ」
脇からヴァルの手が伸びる。手酌で呷った酒を舌で転がし、満足そうに息を吐いた。
「うん、美味いねぇ」
「ありがとうございます。国一番の銘酒にございます」
「失礼ながら王女殿下は、お飲みになれない年頃に思えますけど。酒の味もわからないお姫様が、我が君をどうおもてなししてくれるのかな?」
「よせ、ヴァル。――リオネッタ殿下。わたしは寝酒は嗜まない。心遣いだけ、頂戴しよう」
「そ、そう仰らず。でしたら、お食事だけでもいかがでしょう?」
焦りを露わに、王女は蒸し物の椀を手にする。食べやすくするための気遣いか、息を吹きかけた匙を口元に寄越した。
「申し訳ないが、受けるつもりはない」
「どうして」
「ごめんねぇ、お姫様。酒にも食事にも、確かに毒は入っていないみたいだけど……。君からは媚薬の匂いがぷんぷんするんだ」
「大方、紅か……身に纏った香りに仕込まれているのだろう」
王女の頬が、火がついたように赤くなる。
「あなたに恥をかかせるのも忍びないが、タルヴァニアで待つ妃を失望させるのは、わたしの信条に反する」
リオネッタは肩を震わせ、匙を落とした。
堪えきれず泣き崩れる姿は、十五にすら満たぬほど幼げに映った。
「ここに来るよう命じたのは、あなたの父か」
「申し訳ございません……」
マルケスには八人の子があり、うち五人が王女だ。姉姫らは諸国の王族に嫁ぎ、ザンドリスを外から支えている。末姫もまた、その役目を課せられようとしていると、アルベリオスは察したが――。
「王女たるわたくしに傷が付くようなことがあれば……、メルティナ様をお返しいただく交渉ができると……」
「何と愚かな! 自ら聖女を追放した王が、どんな理由があって返せと言うか、尋ねてみたいものだ。答えられはしまいがな」
マルケスの策謀は、アルベリオスの怒りに火を注いだだけだった。
「わたくしも……国のために、お姉様方のように上手く立ち回らねばならないのに。本当は、こんなことしたくなくて……怖かったの……ごめんなさい、ごめんなさい」
震える声は皇帝ではなく、この場にいない父王へと向けられていた。その涙を見届けて、アルベリオスは短く息を吐く。
「あなたのように流された涙で贖われてきた国の命が、どれほど永らえるものか、わたしは知らない。だがその涙がいつか、父王の過ちを砕く力に変わるなら、あなたやメルティナのような哀しい顔をした女は減るのだろうな」
「わたくしの無礼を……お許し、いただけるのですか……」
「わたしは最初から、あなたに怒ってなどいないよ。さあ涙を拭って、あなたを心配している侍女とともに帰りなさい」
ふわりと傾けられた笑みに、リオネッタはなかなか涙が止まらなかった。
濡らした手拭いを添えて、ヴァルがそっと送り出す。
扉の向こうでは、王女付きの侍女たちが感情を失くした顔で控えていた。リオネッタから事の次第を聞き入れた彼女たちは、崩れるように平伏する。
懺悔と安堵の入り乱れる涙を流し、皇帝の温情に深謝したのだった。
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翌日以降、アルベリオスはマルケスの視察に伴うかたちで、王都近郊の町や村を訪れた。
北方タルヴァニアの冷気に慣れたアルベリオスには、冷夏といえども動けば汗ばむ陽気である。しかし民衆は、薄手の上着の上から腕をさすり、ぽつぽつと落ち始めた雨に嘆きをこぼす。
視線を巡らせれば、豆は蔓こそ豊かだが鞘が膨らまず、麦は茎ばかり高くて穂はまだ頼りない。
「陛下、いまだ実りが遅れておりまして……」
耐えかねた農民が不安を訴えるも、マルケスはただ一言、硬い声で答える。
「心配はいらぬ。ナィナ様の加護がある」
それだけで済ませようとする態度に、アルベリオスは眉をわずかにひそめた。
随行する司農官に耳打ちし、ザンドリス側の同職者のもとへ走らせる。彼の手には、昨日タルヴァニアから贈られた品々の目録が握られていた。
「日照に乏しい夏でも育まれる、我が国の穀物の種や苗も含まれている。時季は多少ずれるだろうが、秋半ばには実る」
「……ここは余の国だ。それとも皇帝陛下は、海を越えて根を張るおつもりか」
マルケスは奥歯を噛み締めて、声を潜める。
民に手を差し伸べて懐柔し、やがて種が芽吹くように、タルヴァニアが内側からザンドリスを侵す。そう言いたげだ。
アルベリオスは静かに息を吐く。
「民を飢えさせたままでは、国は外敵を待つまでもなく崩れよう。差し出がましい真似をしたが、これは今でも母国を想う、我が妃メルティナの思いを汲んでのことだ。他意はない」
マルケスがますます口許を歪ませるのも、アルベリオスは気に留めず、次の目的地へ向かう馬車へ歩を向けた。
「滞在中に、ぜひ水晶宮も拝見したい。聖女を貰い受けて、挨拶の一つもなしというのも失礼だ。神獣ナィナに御目通りを願う」
(図々しい、若造めが――。血縁すべてを排して、帝位に上りつめたとの噂に違わぬ傲慢さよ。その性根、
冷笑を胸に押し隠しつつ、マルケスも自身の馬車に乗り込んだ。
***
そして来る日――。
水晶宮の女官たちは、息すら忘れたように静まり返って、彼らを迎えた。
彼女らが敬愛する聖女を断罪した王と、妃になどと戯言を述べて連れ去った皇帝――。二人を迎えるのに、歓迎の心など生まれようはずもない。
見習いのツァラとティルファは、とりわけ落ち着かない様子で視線を交わす。だが余計な口を開くわけにはいかず、ひたすら静かに従うしかなかった。
光明の渡る水晶宮の最奥へと足を踏み入れた途端、ひやりとした気配が、アルベリオスの背筋を撫でた。
白銀の鱗と体毛を煌めかせた神獣ナィナが、玉座のごとき石台に、ゆったりと身を横たえていた。
午睡を嗜む貴人の如き優雅な寝姿ながら、一分の隙も感じさせぬ鋭い瞳孔は、真っ直ぐにアルベリオスを見据える。
「神獣ナィナ……なんと荘厳なる美しさか」
アルベリオスが感嘆の息を吐く。ヴァルでさえ、言葉を失ってその姿に魅入っていた。
場に満ちた静謐な空気を損なわぬよう、アルベリオスは静かに片膝をつき、深く頭を垂れる。
「お初にお目にかかる。タルヴァニアを治める、アルベリオスと申す。あなたの大切な聖女メルティナを、連れ去る形で迎え入れたこと。まずはその非礼をお詫びせねばならぬ。しかし同時に、彼女の存在はわたしに光をもたらした。その感謝もまた、どうしても伝えずにはいられない。……わたしの行いは許されるものだろうか。どうか、ナィナ様の御心を賜りたい」
言葉は簡潔でありながら、頭を垂れた姿勢はひたすらに真摯であった。女官と見習いの少女たちが、意外な顔で彼を見つめるのを、マルケスは面白くなさそうに舌を打つ。
ナィナは何も答えない。
代わりに、静寂を切り裂き、背筋を凍り付かせる低い唸り声を轟かせた。鋭い牙を覗かせ、黄金の瞳を細める。
するとマルケスは、どこか勝ち誇った顔で進み出た。
「おお……見よ! ナィナ様はお怒りだ。罪を犯したとは言え、曲がりなりにも聖女であるメルティナを、妃になどという不埒者を、お許しにはならないのだ!」
言葉に勢いを増した王は、ティルファへと詰め寄る。少女は恐れ慄き、身を縮めた。
「ナィナ様は申しているだろう!? 聖女メルティナを返すようにと」
「わ、わたくしに……ナィナ様のお言葉を代弁することなどできませんっ……」
「さすれば今一度、改めて罪をそそぐ機会を与えようと――ナィナ様直々にメルティナに情けをかけておるのだ!」
か細い声はすぐにかき消され、マルケスは鬼気迫る形相で少女を睨みつけた。
何としてでもメルティナを連れ戻し、ルーヴェントに引き渡したい。マルケスの事情など知るはずもない少女の肩は震え、女官たちもざわめきに息を詰める。王らしからぬ振る舞いが、場の空気を一層ざわつかせた。
その時、不意に水晶の床が軋んだ。
白銀の巨体がゆるやかに身を起こし、アルベリオスらの足元まで影を伸ばす。
マルケスの目に、にわかに期待の色が宿った。――神獣が、不遜な皇帝を断罪するのだ、と。
だが、次の瞬間。
神獣はその威容を崩さぬまま、ゆるやかに頭を垂れた。
それは臣下の礼でも、威嚇でもない。敬意を示す仕草だった。
瞳はただ一人、アルベリオスを映す。
悠久を生きる神秘の存在に、語りかけるように見つめられ、アルベリオスの胸に熱が走った。抗うことなど考えもせず、彼の頭も再び自然と下がる。
神獣と何かが結び合った――そう直感した。すると突如、ナィナの額が眩く輝き始めた。
黄金の光を弾き、水晶宮全体が燃えるように輝く。
驚きに息を呑んだアルベリオスは、急に深い眠気に引き込まれた。光が視界を満たした途端、意識が転がり落ちるかのように、がくりと首が垂れる。
ヴァルが肩を支える気配を感じたのも束の間、アルベリオスはすでに、ナィナの見る微睡みの奥へと誘われていた――。
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