第3話

 親指の端で、口の端をそっと拭われる。驚きのあまり「えっ」と口が半開きになって、目をぱちぱちと瞬かせてしまった。


「……食べかす。そんなにびっくりすることかしら」

「こんなこと、してもらったことない」

「そう」


 美千花さんは目を伏せて、かすかに笑った。そのまま、すっと立ち上がる。テーブルを回り込んで、すぐ隣に立つ気配。見上げた人の表情は逆光でよく見えない。


「美千花さん?」

「少し横になるといいわ。薬の効きが早くなる」

「……? うん」


 促されるまま立ち上がり、美千花さんの誘導で廊下に出た。自分の家とまったく同じ間取りのはずなのに、見慣れない廊下。なんだか変な感じがする。既視感と違和感が交互にやってきて、ふわふわとした奇妙な感覚。


 廊下の先、玄関の左右にドアがあった。ちら、と美千花さんを見上げる。


「どっち?」

「ベッドは左よ。どうぞ」


 うちは右だな、と思いながら、向かって左のドアを開けた。


 言われた通り、ドアの向こうは寝室だった。

 間接照明でほんのりと薄明るい部屋の中央に、大きなベッドがひとつ。その横にサイドテーブルがあって、壁際には小さな鏡台がしつらえてある。


 ベッドメイクは完璧で、サイドテーブルの上にはチリひとつ見られない。鏡台の上に、綺麗な口紅が一本転がっている。それだけの部屋だった。


 背後でぱたん、と音がする。はっと振り返れば、美千花さんが後ろ手でドアを閉めたところだった。


「どうぞ」

 視線だけでベッドを促される。見やった先には、ぴっちりと美しく整えられたグレーのシーツと、ヘッドボードにきっちり並べられた、ふかふかの枕があった。思わずたじろぐ。


「い……いいの?」

「なにが」

「僕が、その……寝ても」

「おかしなこと言うわね。ベッドは寝るための場所よ」


 さあどうぞ、と美千花さんは躊躇なくシーツを捲った。そこまで言われたら、と僕はおずおずとベッドに歩み寄り、もぞもぞとシーツの中に身を滑り込ませた。


 ……ものすごくいい匂いがする。さらさらですべすべの感触が落ち着かない。


「おやすみなさい」

「う……うん……」


 こんなの、まるで眠れる気がしなかった。それでもなんとか目を閉じる。けれどやっぱり落ち着かなくて、そわそわと目を開く。そんなことを繰り返した。


 美千花さんは、僕のことを気にした風もなく、ただ鏡台の側に立っていた。鏡越し、美千花さんの表情がかすかに俯く。僕はすべすべのシーツを身体に巻き付けて、ぼんやりとそれを見つめていた。


 真っ白い指先が動いて、コト、ととても小さな音。美千花さんが口紅を拾い上げた音だった。艶やかな黒いスティックに、金色の縁取りがちかりと光っている。大人っぽい口紅。お母さんのものとは違う。


 ふと、鏡の中の美千花さんと目があった。静かに微笑みかけられる。慌ててばさりととシーツをかぶると、美千花さんが小さく笑う声がした。


「眠れない?」

「……うん」


 なんか、すごくて。言おうと思った言葉は、ぎしり、という音に遮られた。

 そろそろとシーツから顔を出す。ベッドの上、僕のすぐ側に、美千花さんが腰掛けた音だった。


 見上げた横顔の美千花さんは、ぼんやりと遠いところを見ていた。淡々とした横顔から、すうっ、と息を吸う音がする。そして。


「かーらーす、なぜなくの……」


 歌が聞こえた。知らない歌だ。


「からすはやーまーに……」


 とん、とん、とシーツの上から身体を叩かれる。規則的なリズムとやわらかい力加減が心地いい。僕はただぱちぱちとまばたきをして、知らない歌を歌う美千花さんを見上げた。


「かーわいい、なーなーつの、子があるからよ……」

「……七つの子」


 ぽそり、と言うと美千花さんの手が止まった。なんとなく名残惜しいような気がして、僕はかすかに顔をしかめる。ゆっくりと横顔がめぐって、美千花さんが僕を見下ろした。僕は言う。


「本で読んだことある。七歳まで、子供は人間じゃないんだって」

「人間じゃない?」

「そう。神様の持ち物なんだって。すぐ死んじゃうから」


 いつ死ぬかもわからない不安定な命を人間として大人と同じように扱うと、共同体の運営にいろいろと支障が出る。だからある程度大きくなるまで、社会は子供を人間とみなさないのだと、その本には書いてあった。


 ごそごそと身じろぎして、シーツを抱き込んで、僕は笑う。


「からすの子は七歳だから、よかったね。きっと生きるよ」

「……そうね」


 美千花さんの相槌は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

 つい、と視線が逸されて、美千花さんはふたたび横顔になる。すっと視線が下に落ちて、真っ白い指先が口紅の蓋を開けた。くるくると、中からピンクベージュが繰り出される。落ち着いて上品な、女性らしい色合いだった。


 ピンクベージュの口紅、その先端が持ち上がって、美千花さんのくちびるの前にかざされる。塗るのかと思ったピンクベージュは、けれど再び、くるくるとケースの中に戻っていった。ぱちん、と蓋を閉じる音。


 美千花さんは目を伏せて、口紅のケースを指先で弄んだ。白い指の間に見え隠れする口紅ケースの黒。長いまつ毛の間から、暗く翳った瞳が見える。ゆっくりとしたまばたき。


 数秒間の沈黙ののち、美千花さんがふとこちらを見た。僕がじっと見つめていたことに気付いたらしい。仄暗い瞳が僕を見つめ返して、静謐な眼差しのまま彼女はささやいた。


「やっぱり、眠れなさそう?」

「うん……なんか、ふかふかで、つるつるで……落ち着かない」


 いい匂いするし、と小声で言うと、美千花さんが吐息だけで笑った。するり、と白い指先がシーツの皺を撫でる。


「きれいなだけよ。あんまりちゃんと使ってないもの」

「ここで寝てないの?」

「……どうなのかしらね」


 少し掠れた、笑み混じりの声。だけど表情はほとんど笑っていなくて、僕はただ何度か、静かに目を瞬かせた。


「もったいないね。僕、こんなきれいな布団で寝るの、はじめて」

「……」


 美千花さんは返事をしない。しばしの沈黙。

 物静かな人だな、と思った。それから、あまり笑わない人だな、とも。うちのお母さんとは全然違う。なんというか、月とか、夜の湖とか、そんな雰囲気の人だ。


 僕がもそりとシーツに潜り込もうとした、そのとき。

 真っ白い指先が、僕のほうにするりと伸びてきた。え、と思うのとほぼ同時、美千花さんのひんやりした手のひらが、そっと僕の頬に当てられる。そのまま、ゆっくりと頬を撫でられた。なめらかな肌が僕の頬に触れている。なぞる手つきはとても穏やかだった。


 美千花さんの仄暗い瞳が、静かに僕を見下ろして、言う。


「……あなたはひとりじゃないわ」


 ──ぽかん、とした。

 話にまるで脈絡が見えない。たしか僕は今、布団の話をしていた気がするんだけど。


 ただ、美千花さんの中ではなにかがはっきり繋がっているらしい。意思を宿した目がうっすらと細くなって、彼女はほんの少しだけ小首を傾げた。はらりとほつれる、深いグレーの髪。


「寂しいひとなら、どこにでもいるもの」


 寂しい、ひと。

 なにを言ってるんだろう。別に僕は寂しくなんてないのに。


 意味がわからず、寝転んだまま首を傾げる。目を丸くして、意味もなくぱちぱち瞬きをして、僕はなにを言おうかと迷って。


 けれどなぜか、僕の口から否定の言葉が出ることはなかった。


「……きみも?」


 こぼれおちたのは、ただの呆けた問いかけだけ。どうしてだかはわからない。


 僕の問いかけに、美千花さんは返事をしなかった。静謐な瞳がただ僕を見つめている。そうして彼女は肯定も否定もしないまま、ごくかすかに微笑んだ。


 ──僕はそこで初めて、このひとは旦那さんを亡くしたのかもしれない、と思った。


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