第2話
本田美千花と名乗ったその人は、僕をダイニングに案内して、温かいお茶を淹れてくれた。
目の前に置かれたガラスのティーカップには、女性にいい成分が入っているというハーブティーが注がれている。お茶請けにどうぞ、と添えられた皿には、豆腐でできているというドーナツが乗せられていた。
「実はね。私も鈴原だったの。旧姓ね」
ティーポットを片付けながら美千花さんは言う。僕は黙ったまま、このお茶は飲んでもいいのかな、なんてことを考えていた。
「だからかしら。つい声をかけちゃったのは。……ああ、どうぞ口をつけてちょうだい」
「……うん」
許可が出たので、両手でティーカップを持ち上げる。ハーブティーは淡い琥珀色で、嗅いだことのない複雑な匂いがした。
美千花さんが、ダイニングテーブルの対面に座る。テーブルの上で両の指先を絡めて、彼女は静かな目で僕に問いかけた。
「図書館、好きなの」
うなずく。
「図書館は色んな本があって、いつも明るくて暖かいし。集中して本を読んでると、色んなことを忘れるでしょ。それが面白くて、好き」
「忘れるから好きなの?」
「うん。お腹すいたなーとか、今日はやらなきゃいけないこと多いなー、とか」
言うと、美千花さんはかすかに微笑んだ。
「たしかに、しばらく忘れていたいことってあるわね」
「でしょ」
ずっ、とハーブティーを飲む。知らない味。嗅いだことのない匂い。たぶん嫌いではないと思う。未知の味すぎて、好きとか嫌いとかはまだ分類できない。
豆腐ドーナツは美味しかった。ふわっと甘くて、やわらかい味がする。気がつけば夢中で食べきってしまった。
ごくん、と最後に大きく喉を鳴らした僕を見て、美千花さんが尋ねる。
「お薬は飲んでも平気そう?」
「たぶん」
「痛いのは胃? 腸?」
「生理痛」
正直に答えると、なぜか美千花さんはちょっと目を見開いた。けれどすぐに「わかったわ」と返事をして、棚のほうに歩み寄る。そのままあちこちでごそごそやっていたかと思うと、彼女は僕の前に薬と水を置いた。
「成分的に大丈夫なはずだけど」
半分に割られた錠剤と、ぬるい水。僕は素直にそれを飲み下した。
対面に座り直した美千花さんが目を細める。
「ちゃんと飲めたのね。えらいわ」
「……あの。僕のこと、子供だと思ってない?」
「あら、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
やわらかい褒め言葉はどう聞いても、小さな子供に対するそれだ。顔をしかめた僕に、美千花さんはそっと眉を下げた。
「あなた、何年生? 高学年だとは思うけど」
「何年っていうか……十四歳」
「えっ」
美千花さんが、びっくりしたように目をぱちぱちさせる。僕は首を傾げた。
「ごめんなさい。ずいぶん小柄だから、てっきり四年生か、五年生くらいだと……」
「そんなに子供じゃないよ」
「悪かったわ」
くちびるを尖らせたまま、暖かい部屋と飲み物のおかげでましになった下腹部を、そっと押さえる。その仕草を見留めて、美千花さんが静かに呼びかけた。
「あと三十分くらいしたら良くなってくるはずよ」
こくりと頷く。あーもう、と僕は小さくぼやいた。
「なんで鍵落としちゃったかな……日が出てるあいだに洗濯回す予定だったのに」
「お母さんは? 何時に帰ってくるの」
「うーん……わかんない」
「あら」
美千花さんの、小さな相槌。僕は下腹部をさすりながら、えーっと、とどれから言ったものか考えた。
うちのお母さんは家にいないことが多い。たぶん父親に会いに行っているんだと思う。父は基本的に、こことは別のところで暮らしているから。
たまに父が母と一緒の部屋にいることがあるけど、そういうときの父はだいたい、僕のために本を持ってきてくれるから嬉しい。お母さんも、父に会えたときはすごく嬉しそうだ。
逆に言うと、父が家にいないときの母は気持ちが不安定で、よく泣いたり嘆いたり寝込んだりしている。だからいつも僕が撫でたり抱きしめたりして、母を慰めてあげていた。
「……まあ、最近はそういうこともないから、だいぶ平和になったかな。あの人、寂しがり屋だからさ」
ひととおり説明して、そう締めくくる。ゆっくりとさすり続けた下腹部の痛みは、少しずつ穏やかになっていた。
僕の話を聞いた美千花さんはかすかに目を細めて、そう、とだけ言う。
「じゃあ、家のことも良くやるの?」
「それなりに」
「すごいわね」
なぜか褒められた。どうにもピンとこない。だってうちはずっと昔からこうだったのだ。むしろ背が伸びてコンロや洗濯機、ATMなんかに手が届くようになった今のほうが、よっぽど楽をしている。
困惑を持て余して、意味もなく部屋を見回した。うちと同じ間取りのはずなのに、なんだかすごく広く感じる。ものが少ない。片付いている。シンプルで、整っていて、すごくおしゃれだ。
「きれいな部屋だね。テレビで見るみたい」
「ありがとう」
端的な返事がひとつ。それきり、沈黙。
清潔に整えられた部屋を何度も見回すと、ふと、小さな飾り棚が目に留まった。天板の上に、写真がいくつも飾ってある。
美千花さんと男の人が映っている写真だ。いくつもの小さな四角の中、笑い合うふたりはとても幸せそうだった。
いちばん豪華なフォトフレームの中には、真っ白いドレスの美千花さんと、同じくらい真っ白いタキシードを着た男の人が身を寄せ合っている。旦那さんだろうか。それなら、ここに並ぶのはいわゆる『家族写真』というものなのだろう。
「……いいな」
ぽつり、と呟く。
「そうかしら。きれいって言えば聞こえがいいけど、生活感がないでしょう」
どうやら、部屋の清潔さについて言われたと思ったらしい。僕はええと、と口ごもった。
「そうじゃなくて……写真が」
「ああ、あれ」
美千花さんは納得したように写真を見ると、すうっ、と目を細めた。
「……みんな昔の写真よ。ずうっと、昔の」
そうささやく横顔には、うまく表現できない、僕の知らない翳りが満ちていた。首を傾げる。
「昔でもなんでも、写真があるのはいいことだよ」
正直に言うと、横顔の美千花さんは視線だけをこちらに投げかけた。淡々とした、静かな声。
「あなたの家に、写真はないの」
「見たことない」
首を振ると、美千花さんはようやく僕に向き直った。両肘をつく仕草。黒いワンピースの長袖から覗く手は病的なほど白い。深いグレーの瞳がじっ、と僕を見つめる。血色の淡いくちびるが、ゆっくりと動いた。
「きれいな目。素直で、純粋で、まだ、なにも知らない目」
「……僕、そんなに子供じゃないけど」
不服を訴えても、美千花さんはただひっそりと笑うだけだった。むう、とくちびるを尖らせる。すると、美千花さんがするりと手を伸ばしてきた。
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