第二章 時計を合わせて
第4話
それから、美千花さんはたびたび僕を家に上げてくれるようになった。
図書館からの帰り、美千花さんの出してくれるお茶を飲み、食べたことのないお菓子をあれこれ食べて、家に帰る。そんなことを繰り返すうち、秋が深くなって、月が変わって、十一月になった。
「このヨーグルト、なんか入ってる」
「いちじくよ。ああ、きな粉とハチミツはそこの瓶からすくってかけてね」
いつも通り、美千花さんのうちのダイニングテーブルに座って、僕はうなずく。広々としたLDK、テレビで見るみたいに整った、清潔で綺麗な部屋。
僕はきな粉をどっさりヨーグルトに振りかけると、スプーンでハチミツをすくってたっぷり垂らした。ヨーグルトの表面がすっかり見えなくなるくらいまでそれを繰り返して、口に運ぶ。もくもくと頬を膨らませ、口の中でぷちぷち潰れる種の感触を味わった。
「はい、おまたせ」
「うん」
かちゃ、とティーカップが出される。ふわっ、と湯気が顔に当たって、ほんのり香ばしい匂いがした。花柄のカップは見たことのないものだ。
「いつもと違うカップだね」
「ああ、そうね。ちょうど一昨日かしら、洗ってるとき割っちゃったの」
「もったいないな。前のカップ、透明できれいだったのに」
「ええ。気に入ってたのに、残念だわ」
また同じの買おうかしら、と言う美千花さん。そうしたら? と返事をして、僕はずっ、とお茶をすすった。相変わらず、よくわからない味がする。ここに来るたび毎回違うお茶を出されるから、僕の味覚はちっとも慣れないままだ。
首を傾げながらお茶を飲む僕の正面に、美千花さんがかたりと腰を下ろした。
「今日はね。ルイボスティー」
「これも〝女性にいいやつ〟?」
「そうね」
美千花さんのうちで出されるお茶やお菓子は、一度も同じものが出た試しがない。けれどその効能だけはいつも同じだ。女性にいいやつ。
僕は眉をひそめて、ちらり、と美千花さんを見やった。
「僕、いま生理じゃないよ」
「知ってるわ」
あっさりと答えられ、ますます首を傾げる。初対面のインパクトがよほど強かったのだろうか。美千花さんはただただ同じようなメニューばかり出してくる。まあ、お茶はともかく、お菓子はどれも美味しいからいいんだけど。
よくわかんないな、と思いながらヨーグルトを頬張った。おまけ、と追加で出された豆乳マフィンも一緒に頬張る。おいしい。ヨーグルトでさっぱりした口の中に、甘い味が新鮮に広がった。
もくもくとマフィンを頬張る僕を、対面の美千花さんはただ眺めている。天板の上で両の指先を絡み合わせて、深いグレーの静かな瞳がじっとこちらを見つめていた。静かな表情。
美千花さんは、あまり笑わない人だ。だからだろうか。この〝未亡人〟っぽい雰囲気は。
(まあ、実際はそうじゃなかったんだけど)
そう。未亡人かと思っていたこの人の、旦那さんは普通に生きていた。
顔を見たことは一度もないけれど、そこかしこに生活の痕跡を感じる。今も、リビングのコートハンガーに、前回はなかったジャケットとスラックスがかかっていた。たぶんアイロンを当てて、皺にならないよう吊ってあるんだろう。男の人のスーツは扱いが繊細だって、お母さんが言っていたっけ。
豆乳マフィンとヨーグルトを平らげ、ず、とルイボスティーの最後の一口をすすり終えると、美千花さんが言った。
「お茶のおかわりはいる?」
うなずく。ルイボスティーは悪くない。なんだかとっつきやすい味がする。
美千花さんはかすかに微笑むと、ティーカップを持って台所に消えていった。お湯を沸かすのだろう、ちちち、とガスコンロの点火音。
ぼんやりとそれを聞きながら、僕は空になったマフィンの皿を見ていた。豆乳マフィンは悪くないどころか、すごく美味しかった。できたらあと三つくらい食べたい。下手したら五個は食べれる気がする。
物欲しげに空っぽのお皿を見つめていると、すっ、と横からティーカップが差し出された。それに続いて、新しいマフィンが乗ったお皿も。
「え……」
ぱっ、と顔を上げる。美千花さんは、穏やかな眼差しで僕を見つめていた。僕が物欲しそうにしていたことなど、とっくに気付いていたらしい。恥ずかしさで顔が熱くなった。美千花さんがくすりと微笑む。
「食べていいのよ」
「う……うん。食べる」
おずおずと手にとって、口に運んだ。甘酸っぱい香りがふわりと広がる。さっきと違う味だった。おいしい。ものすごく。ぱあっ、と自分の目が輝くのがわかった。
「今度のは、フランボワーズ」
「ふらん……」
テレビや本で聞いたことだけはある言葉だ。こんな味だったのか。
おいしさのあまり、つい、がつがつ口に入れてしまう。美千花さんがふっ、と小さく息を漏らした。
「そんなに急いで食べなくても、マフィンは逃げないわよ」
「んぐ」
「ほら、お茶も一緒に飲まないと。詰まっちゃうわ」
お茶を勧める美千花さんは、かすかに微笑みを浮かべている。よく目を凝らさないとわからないほど、うっすらとした笑顔。病的に白い肌。儚げな雰囲気。美千花さんの服は今日も黒い。
まだ熱いルイボスティーを飲み込んだ。喉の奥のマフィンも一緒に流れていく。
「ほら。また、食べかす」
「む」
するりと、やわらかく口を拭われた。やさしい仕草。穏やかな手つき。なんとなく、お母さんに感じるものと似た、だけどどこか決定的に違う、よくわからない感情を覚える。まだ濡れたままの傷口が、丁寧に手当をされて、じいんと熱くしみるような、そんな感じ。
僕は何気なく、ねえ、と呼びかけた。
「美千花さん、いつも黒い服だね」
「そうね。主人が、私には黒が似合うって言ったから」
「ふうん。そういうものなんだ」
似合うと言われたら、その通りの色を着る。そうやって相手に合わせることが、愛とか恋とかいうものなのだろうか。僕にはよくわからない。
ずずず、と音を立ててルイボスティーを飲んでいると、ふと美千花さんの袖に目が留まった。
「美千花さん。袖、濡れてる」
「あら。さっきお湯を沸かしたときかしら」
良く見ないとわからないけれど、腕のあたりの布が少しだけ、じわりと色を濃くしている。美千花さんは眉を寄せると、いやね、とささやいた。
「シミになっちゃったら困るわ。ちょっと水で拭いてくるわね」
そう言うと、カウンターの向こう側に回っていく。僕は何気なくそれを視線で追いかけた。美千花さんはカウンターの下で、タオルを水で濡らしている。とんとん、と袖を叩くような音がした。かすかに顔をしかめて、美千花さんは一心に袖を拭いていた。
「そんなに嫌? シミ」
「これ、何年か前の誕生日に、主人が贈ってくれたものなのよ」
「ふうん。旦那さん、優しいんだね」
言うと、美千花さんはふっと目元をやわらかくする。色の薄いくちびるから、とても小さな声がこぼれおちた。
「……そうよ。穏やかでね、優しいひと。少し気持ちが弱いのが難点だけど」
ごくかすかに笑う声。相変わらず、どこか疲れたような微笑みだ。
美千花さんが旦那さんのことを詳しく話すのは初めてだった。なんとなく興味を引かれて、僕は椅子を揺らし、体ごとキッチンに振り返った。
「ねえ、他には? 旦那さん、どういう人なの」
「え? あとはそうね……」
僕が突っ込んできたのが意外だったらしい。美千花さんは拭き取る手を止め、顔を上げた。何度かまばたきをして、考え込むような仕草。静かな声が続けた。
「外ではいつも気を張って頑張ってるけど。本当は、甘えたがりの寂しがり屋なのよ」
「大人なのに? カッコ悪いね」
ばっさりと言うと、美千花さんが小さく笑う。ふふ、と口の端が持ち上がって、穏やかな眉が困ったように下がった。
「大人なんて、そう大したものじゃないわ」
「うーん……」
顎に指先を当てて、僕は考える。数少ない実例をいくつか思い浮かべて、ああそうかも、と思い直した。
「それもそうだね。うちのお母さんも、そんな感じだし……まあ、お母さんの場合は、優しいとか甘えたがりというよりは、か弱くて心の繊細な女の子、って感じだけど」
「女の子……そうだ、女の子といえば」
話題の変わる気配に、僕は首を傾げる。
シミ抜きが終わったのか、美千花さんはタオルを片付けると、ふっと僕を見た。ねえ、と静かな呼びかけ。
「前から気になっていたのだけど。あなた、どうして、自分のことを僕って言うの?」
「へ?」
どうして、って。
一瞬だけ頭のなかにハテナが浮かんで、けれどすぐに思い至った。そうだ、ふつう女の子は、自分のことを僕って言わないんだっけ。
僕はええと、とくちびるを尖らせると、美千花さんの問いかけに答えた。
「そっちのほうが、かっこいいから?」
「かっこいいのが好きなの?」
「うん。女の子っぽいの、あんまり好みじゃなくて」
正直に答えると、美千花さんがあら、というような顔をする。僕は続けた。
「女の子って弱いし、ひとりで生きていくのは大変なんでしょ? そういうのって、ちょっとね」
「詳しいのね」
「まあね。僕、昔からお姫様より騎士様のほうが好きだったしさ」
「騎士様? 王子様じゃなくて?」
「うん。だって後になって馬で駆けつけるだけの王子様より、普段からお姫様を守ってる騎士様のほうがかっこいいもん」
「そういう考えもあるのね」
「普通はそうじゃない?」
そうでもないわよ、と美千花さんが苦笑する。そういうものなんだろうか。僕は昔から騎士様が好きだったから、それが普通だと思ってたけど。
「ね、美千花さん」
笑って呼びかけると、美千花さんは静かに僕を見つめて促した。にこ、と笑いかけて、僕はぴっ、とかっこよく指を立てる。
「僕は強いし、もう子供じゃないし。大人と同じことくらい、いくらでもできるよ」
そう言って、ふふん、と笑ってみせた。
からすの子を思い出す。七歳までは人間じゃない。でも僕はもう七歳じゃない、それどころかその倍だ。家のことだってひとりでできるし、お母さんだって慰めてあげられる。
僕は立てた指先でひらりと円を描いた。まるで騎士が剣を振るように、きりりとかっこよく。
「美千花さんが寂しいなら、僕が守ってあげる」
──寂しいひとなら、どこにでもいるもの。
初めてここに来たときの言葉が蘇る。
あのとき、美千花さんの目はどこか仄暗い色を宿していて、諦めのように静かだった。きっと、寂しいひとというのは美千花さん自身のことなのだ。
「……」
「美千花さん?」
不意に黙り込んだ美千花さんに首を傾げる。
美千花さんは返事をしなかった。ただ黙ってキッチンを出て、カウンターを回って、僕の側にやってきた。すぐ隣に佇んだ。
「……?」
椅子に座ったまま、ぼんやりと美千花さんを見上げる。その表情は照明の逆光で良く見えない。なんとなく、微笑んでいるようにも、そうじゃないようにも見えて、僕はかすかに目を細めた。
そうっと、真っ白い手が伸びてくる。ひた、と頬に当てられたてのひらの感触はひんやりとしていて、ゆっくりと撫でる仕草。
「美千花さん……?」
「……あなたはひとりじゃないわ」
よくわからない。それはたぶん、僕の台詞だと思うのだけど。
目をしばたたかせる。美千花さんの表情は逆光の薄いグレーに塗りつぶされてわからない。冷えた手が静かに僕の頬に触れる。穏やかな、僕にはどうにも不慣れな、頬を撫でていく感触。
美千花さんはなにも言わなかった。僕はなにを言ったものか迷って、結局、黙って頬を撫でられてあげることにした。
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