ヴァニタス画と教室の雑音
がらり、と音を立てて教室の扉が開く。
半数ほどの生徒が、思い思いに朝の時間を過ごしていた。
真琴は、誰に声をかけるでもなく自分の席へと向かう。
気づいた者が、軽く会釈をするだけだった。
一限目は、現代社会。
プロジェクターに、17世紀オランダの静物画が映し出された。
髑髏、消えかけた蝋燭、砂時計、そして瑞々しい果物や豪華な杯。
「――これは『ヴァニタス画』と呼ばれる様式だ」
教師が、レーザーポインターで髑髏を指しながら説明を始める。
「ヴァニタスとは、ラテン語で『空虚』を意味する。人生の儚さ、富や名声の無意味さを、これらのモチーフで象徴している。さて、現代において、我々は何を『幸福』だと感じ、何を追い求めているだろうか?グループで話し合ってみよう」
「はーい」という気のない返事と共に、教室は再びざわめきを取り戻した。
真琴の班では、バスケ部の青葉菜摘が腕を組んで言った。
「幸福ねぇ。まあ、勝つことでしょ、普通に。試合に勝って、目標達成すんのが一番じゃん?」
周りの女子たちが「それなー」「わかるー」と同意する。
隣の席の陸上部、水上秋穂が静かに呟いた。
「でも、絵の中の髑髏は、そういう勝利も虚しいって言ってるんじゃないかな。どんなにすごい記録を出しても、いつかは誰かに抜かれるし……だから……もっと違う、形に残らないものの方が、本当は大切なのかも……」
「形に残らないもんって、何よ?」
菜摘が面白そうに秋穂を覗き込む。
秋穂は顔を赤らめ、「友情、とか……」と小さな声で言った。
班の女子たちが、どっと笑う。
「秋穂、ロマンチストかよ!」とからかう声が飛ぶ。
秋穂は「違うって!」とムキになって否定している。
真琴は、その輪の中にいなかった。
彼女はノートに、教師の言葉と教科書の図版を、定規で引いた線で区切りながら几帳面に書き写していた。
やがて、教師が各班に意見を求め始める。
誰も手を挙げない空気が流れた。
真琴は、その沈黙が許せないかのように、すっくと立ち上がった。
「はい」
教室中の視線が、またか、という諦めを伴って彼女に集まる。
「私は、この絵の『虚栄』という考え方には、問題点も含まれていると考えます。目標達成のための努力や、その結果としての成功を全て『空虚』だと切り捨てることは、社会の停滞を招く危険性があるからです。例えば、アスリートが勝利を虚しいものだと考えたら、記録は更新されません。それは……」
熱弁の途中で、教師が困ったように笑い、彼女の言葉を遮った。
「ありがとう、夏川。素晴らしい視点だ。だが、少し論点がズレてしまったかな。これは思想の是非を問うているのではなく、あくまで当時の人々の死生観を理解する、という話なんだ」
教室のいくつかの場所から、くすくす、と小さな笑い声が漏れた。
「真琴、真面目すぎだって」
「話がデカいんだよなー」
誰からともなく発せられる囁き。
菜摘は、呆れたように、しかし面白そうに「マジメかよ」と口の形だけで笑った。
秋穂は、興味を失ったように窓の外に視線を移している。
真琴は、何も言えず、顔を赤くして席に着いた。
ノートに几帳面に書かれた「ヴァニタス」の文字が、じわりと滲むように歪んで見えた。
終わりのチャイムが、教室の空気を解き放った。
飛び交う喧騒を背に、夏川真琴は静かに席を立つ。
彼女の足は、迷いなく特別棟の奥、最も日当たりの悪い場所へと向かった。
引き戸を開けると、埃と木の匂いがした。
廃部寸前の、剣道部道場。
壁には色褪せた「不動心」の書。
隅には、持ち主のいない防具が墓標のように積まれている。
西日が、舞い上がる細かな塵を黄金色に照らしていた。
制服を脱ぎ、丁寧に畳む。
藍色の剣道着と袴に身を包み、帯をきつく締めた。
すり足で道場の中央へ。
壁に立てかけた竹刀を手に取ると、使い込まれた革がしっくりと手に馴染んだ。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
ヒュッ。
空気を切り裂く音が、静寂に響いた。
ヒュッ。ヒュッ。ヒュッ。
汗がこめかみを伝い、顎から滴り落ちる。
呼吸だけが、荒くなっていく。
一振りごとに、思考は単純になっていく。
やがて、夕陽が道場を茜色に染め上げた。
その中で、彼女はただ一人、黙々と竹刀を振り続けていた。
「メェェェェンッ!」
誰に届けるでもない気合が、一度だけ、道場に突き刺さった。
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