午前二時の設計図

 翌日の放課後。

 ホームルームの喧騒は、文化祭という言葉の魔法で、いつもより少し浮ついた熱を帯びていた。


「――さて、HRを始める。議題は一つ、文化祭についてだ」

 担任教師が教壇に立つ。


「うちのクラスの出し物は、事前のアンケート結果通り、カフェに決定した。まあ、一番無難で、準備も楽だからな」

「よっしゃー」「楽なのが一番」という声が上がる。

 すでに何人かは、メニューや内装について気の早い雑談を始めていた。


「で、問題は……実行委員なんだが」

 教師がそう続けた途端、教室は水を打ったように静まり返った。


 誰もが、すっと目を伏せる。

 スマホをいじるふりをする者、ノートの隅に意味のない落書きを始める者。

 それぞれが巧みに気配を消していく。

 教師は困ったように頭を掻き、名簿に視線を落とした。


「誰か、やってくれる者はいないか? 推薦でもいいぞ」

 その言葉は、まるで深海に投げ込まれた石のように、何の反応も引き起こさずに沈んでいった。

 重い沈黙が、教室の空気を支配する。


「――先生」


 静寂を切り裂くように、凛とした声が響いた。

 夏川真琴が、すっくと立ち上がっていた。

 教室中の視線が、驚きと共に彼女一人に集中する。


「誰もやらないのでしたら、私がやります」


 一瞬の、唖然とした沈黙。

 その直後、まるで堰を切ったかのように、安堵と賞賛の拍手が沸き起こった。


「おー、さすが委員長!」

「助かるわー、真琴!」

「よっ、男前!」

「よろしくな!」


 賞賛の嵐の中で、真琴は力強く頷いた。



 その夜、真琴の部屋の明かりは、深夜になっても消えることはなかった。

 弟も父もすでに寝静まった家の中、彼女は一人、机に向かっている。

 目の前には、広げられた大きな模造紙と、ミリ単位で目盛りが刻まれた定規、芯の尖ったシャープペンシル。

 傍らには、飲み干されたエナジードリンクの缶が静かに立っていた。


 彼女は定規を手に取り、模造紙に線を引いていく。

 フリーハンドなどあり得ない。

 全ての線は、0.5ミリのシャープペンシルによって、寸分の狂いもなく引かれていく。

 何度も、光にかざして歪みがないかを確認しながら。


『文化祭準備計画表』


 中央に、レタリング定規を使って一文字ずつ、美しい表題が書き込まれた。

 それだけで、時計の針は三十分進んでいた。


 次に、クラス全員の名簿を見ながら、役割分担を練っていく。

 運動部の子は、力仕事。

 美術部の子は、装飾。

 要領の良さそうなグループは、買い出し。

 まるでパズルのピースをはめ込むように、彼女は最適だと思われるポジションに、淡々と名前を書き込んでいった。


 午前二時。美しい表が完成する。

 しかし、彼女の仕事は終わらない。


『クラス内カフェ運営規定』


 新たなノートに、彼女はさらに細かなルールを書き連ねていく。


・シフト交代:5分前に到着。口頭での引き継ぎ5項目以上。遅刻は反省文提出。

・装飾:画鋲は壁に対し垂直。間隔は15cmに統一。メジャー使用必須。

・接客:入店から3秒以内に発声。「いらっしゃいませ」。

・衛生:作業前に石鹸で30秒以上の手洗い。アルコール消毒。指定の三角巾着用。

・備品:毎日作業終了時に在庫チェックリストを作成し、実行委員(夏川真琴)に提出。


 全てを書き終え、エナジードリンクの空き缶をくしゃりと握りつぶす。

 真琴は、完成した計画表と運営規定を、満足げに眺めた。


 空が白み始める頃、彼女はようやく短い眠りについた。

 その完璧な計画書を、まるで宝物のように、そっと胸に抱きしめながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る