凡庸の国のシンデレラ

Vii

朝の儀式と赤いリボン

 朝の光は、まだ誰のものでもなかった。

 始業を告げるチャイムまで、一時間半。

 しんと静まり返った校舎に、規則正しい音だけが微かに響く。

 サッ、サッ、という箒がリノリウムの床を擦る音。


 夏川真琴は、昇降口を掃き清めることを自らの日課としていた。

 昨日の喧騒が残した見えない塵を、ちりとりへと集めていく。

 角に溜まった埃を決して見逃さない、その執拗なまでの丁寧さは、彼女の世界そのものだった。


 掃除を終え、汗一つかいていない顔で上履きに履き替えると、彼女は最も重要な儀式に取り掛かった。

 きつく結い上げていたポニーテールの赤いリボンを、一度するりと解く。

 解放された長い黒髪が、ふわりと背中に広がった。

 ほんの数秒の、束の間の解放。


 すぐに彼女は、その髪を再び寸分の乱れもなく一つに束ね上げ、赤いリボンを手に取った。

 きゅ、と絹が軋む音を立てるほど、強く、固く。

 結び直されたリボンが、彼女の瞳に鋭い光を宿した。

 指先に残るリボンの感触。



 まだ自分が小学生だった頃、突然、母がいなくなった。

 理由はわからないまま、家の空気が変わった。父は喋らなくなり、幼い弟は夜に泣いた。

 世界がバラバラに溶けてしまいそうだった。


 そんな時、父が台所の壁に一枚の紙を貼った。

『お手伝いリスト』。


──『朝起きたら、顔を洗う』

──『食器を流しに運ぶ』

──『弟と一緒にお風呂に入る』

──『寝る前に、明日の準備をする』


 それを一つ一つこなしていく。

 すると、父が「ありがとう、真琴。助かるよ」と頭を撫でてくれた。

 弟の体を洗ってやると、きゃっきゃと笑った。

 バラバラだった世界が、確かな輪郭を取り戻していくようだった。


 真琴は鏡に映る自分の、鋭いとさえ言える真っ直ぐな瞳を見つめ、小さく頷いた。

 正しい一日は、正しい準備から始まる。

 彼女は自分の教室へと向かった。



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