第25話_午後四時の足音

 午後の授業が終わると、校舎の廊下は一瞬だけざわめき、すぐに静まった。部活動に向かう生徒たちの靴音が、校庭へ抜ける風と混ざって消えていく。だが、三階の旧理科室棟だけは別だった。廊下の奥にある階段は、午後四時ちょうどになると、必ず一つ上の音を鳴らす――そういう噂だ。

  幸星は教室の掃除を終え、雑巾を水道に掛けたまま、時計の針を見た。三時五十五分。凛音と航大はまだ教室にいて、部活動の荷物をまとめている。

  「今日は行くの?」

  凛音の声は軽く、けれど視線は探るようだった。

  「行く」

  幸星は短く答え、机の端に置いた懐中電灯を確認する。旧理科室棟は電灯が少なく、窓もすりガラスで暗い。

  三人は廊下に出て、階段を下りずに渡り廊下を進む。外は雲が厚く、窓越しの光は白くにごっている。足元の板は、節の位置を覚えておけば音を立てずに歩ける。航大が前に立ち、幸星と凛音が並んで続く。

  旧理科室棟は二階建てだが、階段は三階に続いているように見える。三階は閉鎖され、踊り場から先は金属の柵で塞がれている。だが、その柵の向こうから「降りてくる足音」が聞こえるのだという。

  「今日は……四時ちょうどに着ける?」

  凛音が声を抑えて訊く。

  「あと二分」

  航大が腕時計を見て答える。

  二階の踊り場に着くと、三人は並んで柵の前に立った。金属は古く、手で触れると冷たさが指先に張りつく。上を見ると、階段は灰色の影の中に吸い込まれている。

  「あと十秒」

  幸星が呟く。全員が黙り、呼吸を浅くする。

  四時。

  上から、一歩目の足音が落ちてきた。

  乾いた木の段を踏む音。間隔は正確で、呼吸の拍のように一定だ。二歩目、三歩目――幸星たちの立つ踊り場までの段数を逆算すれば、あと七歩。

  「……来る」

  凛音の唇が形だけを作る。

  五歩目。足音は重くも軽くもない。六歩目。音は真上に近づく。七歩目――来ない。代わりに、金属の柵のすぐ向こうの段で音が止まった。

  航大が、視線だけで幸星に合図する。

  「開けるな」

  幸星は頷き、手をポケットの中に入れた。そこには小さな方位磁石がある。針は柵の向こうを向いて微かに揺れている。動く必要はない。動かしてはいけない。

  その瞬間、足音が再び鳴った――今度は階段を上る方向に。音は先ほどと同じ間隔で、上へ、上へと遠ざかっていく。

  凛音が小さく息を吐いた。

  「これで終わり?」

  幸星は首を横に振る。

  「終わってない。……四時五分に、もう一度」

  針はまだ揺れている。三人は柵の前から下がり、階段の影が視界から外れる位置まで退く。そこから五分を待った。

  四時五分。

  今度は、足音は柵の向こうからではなく、自分たちの背後から聞こえてきた。廊下の奥――誰もいないはずの教室の方から、一定の間隔で近づいてくる。三人は振り返らない。音は踊り場で止まり、そして階段を上る。

  上りきった音は、やがて消えた。方位磁石の針も、ゆっくりと北に戻る。

  「これが、午後四時の足音」

  幸星はそう言い、懐中電灯を消した。

  その後も、旧理科室棟の階段では四時の足音が続いている。ただし、一度でもその音の主を見上げた者は、次の日から廊下の奥で足音を聞くようになる――必ず、自分のすぐ後ろで。

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