第24話_小屋の窓
翌日、
林間学校の二日目、消灯前の校庭は、湿った暗さで音を吸っていた。宿舎の灯りは一段落とされ、虫の声だけが一定の拍で続く。焚き火はすでに片づけられ、残りの火は金属の蓋で覆われている。教員が名簿を見ながら短く言った。
「薪小屋の戸締まり、見てくれるか」
指名されたのは凌と亜衣だった。二人は頷き、懐中電灯を一本ずつ受け取る。光量は弱。強は使わない。扉の鍵の確認、落ちた薪の回収、戻りは同じ道を逆順で。合図は手の甲を二度で退避、一度で停止、三度で戻る。
校庭の端から細い道へ。砂利は湿って音を立てない。両側の杉は背が高く、枝の間は黒い。宿舎の明かりはすぐに見えなくなった。
「歩幅、変えない」
凌が低く言い、前に立つ。懐中電灯は胸の前で下向き、手首ではなく肩で角度を固定。亜衣は半歩後ろ、光が地面に作る薄い楕円の縁を基準に足を置く。四の前でためない呼吸――吸う一、吐く二。
薪小屋は林の外れ、木の柵の向こうにある。板張りの壁に小さな窓が一つ、腰の高さ。ガラスは古く、波打っている。小屋の前に立つと、窓は黒く、懐中電灯の輪だけが揺れた。
鍵は掛かっている。戸板の隙間から風は入らない。凌が手の甲を一度、停止の合図。亜衣は足を揃え、視線を窓の角――左上の枠の交点に固定した。枠は動かない。角は「止まる場所」だ。
そのとき、窓に映る二人の影の背後に、もう一列が現れた。亜衣は眉を上げない。映像の中で、彼女と凌の後ろに、小さな影がいくつも続く。背丈は均一で、肩は並び、列の最後尾はほんのすこしだけ首を傾けている。
振り返らない。
「……見ない」
亜衣は声にせず、唇の形だけで言った。凌は頷かず、窓の角から視線を動かさない。前に立って止めるべきものは、いま「鏡の中」にしかいない。鏡の前に立ちすぎない。
「戸、確認する」
凌は合図を一度。亜衣が鍵穴に近づき、金具に触れず視線は角のまま、手だけで掛け金の位置を確かめる。金属は冷たい。緩みはない。戸の下に落ちた細い枝が一本、靴の先で触れた。懐中電灯の輪の中で、枝は乾いている。
窓の中の列が、少し動いた。最後尾がわずかに前へ出る。数えない。亜衣は数の形を頭に作らない。列を見るのではなく、枠の角を見続ける。
「戻る?」
凌の囁きは短い。亜衣は手の甲を二度――退避。だが動き出す前に、もう一つだけ確かめることがある。小屋の窓は映す。映すなら、こちらの動きも映す。映像の列の動きに合わせて戻れば、ぶつからない。
「合わせる」
亜衣は唇で伝え、凌の肘に軽く触れた。二人は窓の中の自分たちと影の列の歩幅を、視線の端で拾う。列はいつも一人多い――ここでは決して数えない。数の代わりに拍を使う。吸う一、吐く二。吐くで一歩。四の前でためない。
最初の一歩。窓の中の二人と、背後の列が同じ拍で動いた。
二歩目。最後尾の首の傾きがほどける。
三歩目。列の間隔が整う。
窓の外の二人は振り返らない。枠の角から視線を離さず、呼吸と足だけを動かす。
踵を鳴らさず踊り場の角へ。薪小屋の影が背中から抜け、窓の黒が視界の端で小さくなる。亜衣は停止の合図を一度、出しかけて止めた。窓の中の列の最後尾が、同じ場所で「止まる」を待っている気配があったからだ。
もう一歩。
同時に、窓の中の列の最後尾が踏み出す。
「……いま」
亜衣は声にはせず、吐くの終わりで指先を下ろした。停止。枠の角は揺れない。映像の列の最後尾は、二人の背後の位置に来て――そこで薄くなる。亜衣は見ない。角だけを見る。
戻る動線の途中、草むらの手前で枝が一本、横たわっていた。避けるのではなく、またぐ。踏み替える瞬間、窓の中の列も同じ高さで足を上げる。動きは静かで、音は出ない。
「扉まで、同じ」
凌の唇がそう言う。宿舎の木の扉まで、呼吸を崩さない。速度を変えない。間隔を詰めない。前に立って止める役目は必要なら受けるが、いまは「前に立ちすぎない」。鏡の列に寄りかからず、合わせすぎない。
宿舎の明かりが視界に戻る。扉の前で停止の一度。二人は同時に深くは吸わず、吐くを長く――四の前でためない。背後の暗がりは、ただの暗がりに戻る。
中に入ってからも、扉をすぐには閉めない。蝶番が鳴らない角度で一度だけ寄せ、隙間の黒が薄くなるまで三呼吸待つ。凌が手の甲を三度――戻る。扉は静かに閉まった。
広間には班の数人が残り、明日の行程表の配布を手伝っていた。凛音が二人の肩の高さを見て、何かを読み取るように目を細める。
「どうだった」
凌は短く答える。
「窓――映る。列――一人多い」
それ以上、言葉を足さない。亜衣は机の角で小さなメモを作る。紙は白く、字は黒で短い。
『小屋の窓/見るのは“角”/振り向かない/吸一・吐二/吐くで一歩/停止=角で/数えない』
飾りは付けない。配らない。必要な時にだけ、見せる。
その夜、寝具に入ってから、亜衣は呼吸の配分をもう一度だけ繰り返した。吸って一。吐いて二。四の前でためない。頭の中に窓の枠の角を置き、そこへ視線を固定する練習。目は閉じたまま。
凌は廊下側の布団で横向きになり、前に立つべき音かどうかを耳で選ぶ。板の軋みが一度だけ鳴り、すぐ止んだ。前に立つ必要はない。
翌朝、班での打ち合わせの時間。亜衣は一年生の前に立ち、長い説明をしない。板書は三行だけ。
『窓の「角」を見る/列は数えない/吐くで一歩(四の前でためない)』
凛音が横で小さく頷き、矢印を一本足す。
「振り返らない」
言葉はそれだけ。
原因は断定しない。
窓に映った列の正体を、名前にしない。必要なのは、視線の置き場所を決めること、呼吸と歩幅を揃えること、止まる合図を先に出すこと。
薪小屋の窓は、朝の光の中ではただの古いガラスだった。枠の角は四つとも同じで、波打つ面だけが淡く外を返している。二人はそこを通り過ぎるときも、角を一つだけ見て、速度を変えなかった。
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