第22話_懐中電灯の輪
翌日、
夜の点呼が終わって、宿舎の消灯が告げられた。廊下の非常灯だけが緑に光り、床板は昼より冷たい。各班は寝具を敷き、明朝の持ち物を枕元へそろえ、教師の巡回が一度通り過ぎたところだ。
凛音は毛布の端を折り、肩の高さが落ち着く位置を見つける。隣で彩菜が手帳の最終チェックを終える。班の誰かが置き忘れた雨具袋が一つ――廊下の乾燥室に掛け直しに行く必要がある。眠り始めた子を起こすほどのことではない。二人で往復すれば済む。
「行く」
彩菜は短く言い、懐中電灯を二本、凛音に見せる。光量は弱、中。強は使わない。点灯は廊下で。退路を先に決める――部屋から右へ十歩、踊り場手前で折り返し、乾燥室に寄る。合図は声を出さず、手の甲を二度。止まるは一度。戻るは三度。
戸を静かに引く。廊下は人の気配が薄く、木の香りが眠気に混じる。彩菜が懐中電灯を胸の前で一度だけ点滅させ、角度を床に落とす。円の端が板目に沿って楕円に伸び、凛音の足元を包む。
最初の十歩は静かだった。足裏が床を撫でる音だけ。非常灯の緑は遠くで小さく呼吸し、虫の声が外から薄く差し込む。
乾燥室の前まで来て、彩菜が「止まる」の一度を出す。凛音が扉の前にしゃがみ、掛け直すべき袋を確認する。手に取った瞬間、彩菜の光の輪の端――そこに、濃い影がふっと乗った。
足跡。
濡れてはいない。泥でもない。けれど、光の輪の内側にだけ、板目の上に二つ、踵と指の形をはっきり残している。輪の外は何もない。凛音が息を抑え、肩を上げないよう意識する。彩菜は光を跳ね上げない。角度を固定し、円の中心を動かさない。
足跡は歩いてくるのではない。置かれる。間を置いて、もう一組。距離は一定。輪の外は相変わらず空のまま。
凛音は手の甲を二度。退避合図。彩菜は頷かず、光の輪を床に貼り付けたまま、もう一本の懐中電灯を凛音に渡す。
「重ねる」
唇だけでそう言い、凛音が二本目の光を、彩菜の輪へそっと重ねた。二つの円が板目の上で重なる部分は明るく、輪郭が柔らかく融ける。
重なった部分では、足跡が薄くなった。にじみの縁がほどけ、板の年輪に吸い込まれるみたいに退く。輪の外では何も起きない。二本の円をわずかにずらすと、薄くなった跡が戻りかけた。重ねを深くすると、消える。
彩菜は光の角度を固定した。手首ではなく、肘と肩の位置を決める。息は吸う一、吐く二。四の前でためない。凛音も同じ配分に移り、二本目の円の中心を彩菜の輪の中心に合わせ続ける。
その間にも、重なっていない円の縁に、新しい足跡が一つ現れた。輪の外にはない。円の中にだけ、置かれる。凛音は顎をわずかに引き、視線だけで彩菜に「左」と送る。彩菜が三センチほど円を左へ滑らせる。重なりが増え、跡はすぐに薄まった。
「戻るは三」
彩菜が手の甲を三度。凛音がうなずく代わりに、懐中電灯の尻で板を軽くコツ、と一度叩いた。二人は同時に半歩ずつ、来た道へ下がる。光の輪は重なったまま、前方ではなく足元を包む。
踊り場が近づくにつれて、非常灯の緑が強くなる。そこで一度、彩菜が「止まる」を出す。重なりを解かず、二つの円の真ん中に足を置く。足跡は現れない。
試しに、彩菜が光をほんの指二本ぶんだけ持ち上げ、重なりを浅くした。すぐに、円の端に一つ、足跡が置かれた。戻すと、にじみが引く。
「角度、固定」
彩菜は自分の言葉に、自分でうなずかない。声にしない。手首の筋肉を緩め、肩で持つ。凛音は呼吸の配分を保ち、視線で耳を指した。音――いまは何もない。常夜灯のうなりも、廊下の奥の寝息も、遠い。
乾燥室へ戻る前に、二人は小さく相談する。唇の動きだけ。
「袋、掛け直す」
「円、残す」
役割が決まる。凛音が扉に向かい、彩菜は二つの円を床に重ねたまま、出入りの角に「踏まないで」の影を作る。凛音が袋を掛け直す間、足跡は現れなかった。
戻る。二人で円を重ねたまま、部屋の前へ。戸口の前で、彩菜が円を一つずつ薄く広げる。重なりを保ったまま範囲を広げ、敷居と板目の段差を越えやすくする。凛音が戸を引き、足元に影を作らない角度で二人が中に入る。扉が静かに閉じる。
寝具の上で息を落ち着ける。彩菜は手帳に短く書く。
①光の輪の内側にのみ足跡出現
②輪×輪=重ねると薄化/離すと復帰
③角度固定。手首でなく肩で持つ
④退避=重ねたまま半歩後退
⑤理由は書かない。手順のみ共有
凛音は寝袋の中で肩の高さを整え、隣の子の寝息に呼吸を合わせる。四の前はためない。
「明日、一年生に見せる?」
彩菜は首をわずかに横に振る。
「配らない。必要な時だけ重ねる」
その夜、遠くの山が鳴る。風ではない。こだまは二度返る。寝ている子の誰も気づかないほどの小ささで、天井が一度だけ息を吐く。
凛音は目を閉じたまま、重なった円の感覚を手の中に置いた。両手で持った懐中電灯の重さ、肩で支えた角度、重なりの中心に立つ静けさ。輪を重ねることで消えるものがある。輪を離すと戻るものがある。
夜は深く、虫の声は規則正しい拍へ落ち着く。
原因は追わない。
足跡が誰のものか、どこから来るのかを名前にしない。必要なのは、角度を固定し、輪を重ねて、退くときは重ねたまま下がる手順だ。
消灯の暗さは変わらず、宿舎の木はきしまず、眠りの列は崩れない。二人は同じ拍で呼吸し、手の中に残る光の重みを確かめながら、静かに眠りへ落ちていった。
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