第4話_楽譜の余白
放課後の音楽室は、昼間の熱がまだ薄く残っていた。窓は半分だけ開き、外の風は入ってこないのに、カーテンだけがゆっくり揺れている。譜面台が十台、等間隔に並び、黒い背板が夕方の光を鈍く返した。
凛音は、翌日の合唱で使う譜面の汚れを確かめながら、一枚ずつ角をそろえた。ページの端がめくれにくいよう、親指の腹で折り目を軽くならす。声は出さない。音を立てない。誰かが個人練をしていた名残の空気が、まだ部屋の高いところに薄く漂っている。
亜衣は反対側の譜面台に立ち、台の角度をひとつずつそろえていた。足元の微細な粉――チョークの白が、靴の縁に沿って点のように並ぶのを見つけ、彼女は手首の内側でそっと払う。粉が舞い上がらないよう、力は最小限に。
準備が一段落したところで、凛音は窓側の席に置かれた古い合唱曲集を手に取った。紙が柔らかく、ページ同士が密着している。彼女は机に本を置き、二段目の休符の位置を確かめるように目で追った。向かいで亜衣が視線を上げ、凛音の動きに合わせてペンを出す。
そのときだった。開いているページの、まだ何も書かれていない余白から、しゃり、と細い鉛筆の擦れる音がした。紙をかくほどの強さではない。芯の先が軽く触れて線の始めだけが生まれて、すぐに宙で消える、あの小さな音。
凛音は顔を上げ、亜衣の目を見た。二人とも、動きを止める。室内の換気扇は回っていない。廊下からの話し声も、今は遠い。音の出どころは、目の前の余白。紙の白さの上に、何もないはずのスペース。
しゃり。間。しゃり。間。間隔はそろっている。数えてみると、一、二、三で次、のように遅すぎず速すぎず、歌えば歩きやすい速度。
凛音は声を出さず、胸の前でゆっくり息を吸い、吐く。亜衣はうなずかず、言葉も挟まず、紙の端に指先を置く。触れているのではなく、触れる手前。そこに小さな境界線を引くように。
擦れる音がひとつ、ふたつ続いて、ぴたりと止んだ。止んだのではなく、どこかへ移ったのだと、二人とも直感した。凛音が耳を澄ますと、今度は机の天板の下――空洞になっている部分から、微かな振動が伝わってくる。木の繊維が、内側から細かく叩かれるときの手応えだ。
窓の外で、部活帰りの足音が一瞬だけ重なった。凛音はそちらへ視線を向けかけて、すぐ戻す。視線を散らすと、拍を乱す。彼女は本の背を軽く押さえ、ページが勝手にめくれないようにした。
机の上の余白は、相変わらず何も書かれていない。ただ、紙の白さが、どこか厚みを増したように見える。亜衣は紙の端から指を離し、机の脚へ移動した。膝をつかず、腰を落としすぎず、机の脚の付け根に指を沿える。そこから鈍い震えが、規則的に伝わってくる。
「……」
彼女は声を出さない。かわりに、凛音の手元を見て、顎をほんの少しだけ下げる。凛音は理解の合図として、人差し指を二本の段の間に差し入れ、余白の上で止めた。指の影の切れ目が、紙の上の空気を薄く変える。
しゃり。今度は、紙ではなく、机の天板そのものが音を返した。凛音は驚かず、呼吸を一定に保ったまま、ページをそっと閉じた。紙の重みが余白を隠す。その瞬間、机の上に、細かな点の列がうっすら浮いた。鉛筆の芯が軽く触れて、粉だけが載ったような、灰色の粒。
それは一直線ではなく、微妙に間隔を変えながら、四拍目ごとにわずかに長い距離を取って並んでいた。四つ目の点の前だけ、紙一枚ぶんの余白が広い。
亜衣は息を止め、点と点の間隔を目で測った。彼女の指は机の脚から離れ、今度は天板の端へ。点列の始まりから終わりまでを見通し、心の中で数える。いち、に、さん、し――。四の前が、半呼吸ぶんだけ伸びる。そこに、歌の重心を乗せると、崩れない。
凛音はその視線の動きを見て、メトロノームへ目を移した。壁際の棚の上に、小型のデジタルメトロノームが置きっぱなしになっている。さきほどまで気づかなかった。液晶は消灯しているが、耳を澄ますと、装置の内部で小さく、一定の周期で回路が鳴っているような、そんな気配があった。
亜衣はすっと立ち上がり、棚に近づいた。デジタルのボタンには触れない。彼女は装置の横に手のひらを置き、空気をわずかに遮る。通り道を変えるだけで、微細な音の強さが変わる。指先に伝わる気配で、周期を確かめる。余白の点の間隔と一致している。
彼女は凛音を見た。凛音は頷かず、目だけで「はい」と伝える。亜衣は装置の下に指を差し入れ、ゴム脚を机からそっと持ち上げた。空中に浮かせることで、机への伝達を切る。彼女はその状態で三拍分待ち、四拍目の前、ほんの少し長くなる手前で、電源ボタンに爪先を滑らせた。押し込むのではなく、触れる。
音はしない。けれど、机の上の点列が、そこで増えるのをやめた。余白の厚みが、ぺたん、と平らに戻る。天板の内側から伝わっていた振動も静まり、代わりに、静けさが天井から降りてくるように感じられた。
凛音はページをもう一度開き、余白に目を落とした。紙は白いだけだ。何も書かれていないし、擦れ跡も見えない。彼女は本を閉じ、両手で表紙を包むように持った。紙の温度が、自分の体温に近づく。
「……ありがとう」
凛音は小さな声で言った。感謝は亜衣に向けてではなく、いま落ち着いた空間そのものに向けて。亜衣は返事をせず、メトロノームを箱に入れる。箱の蓋は閉めない。完全に隔てず、けれど広げすぎない距離に置く。
「明日の配布、順番変える」
凛音はメモ帳を開き、二曲目の導入を後ろへ下げ、一曲目の呼吸練習を少し長めに組み替えた。余白の点列が示した「四の前のわずかな伸び」を、最初の合わせで体に入れる予定。説明を減らし、手の合図で済むように。
亜衣は机の上の粉を、布で払った。点列は完全に消えた。彼女は窓際に歩み、カーテンの揺れを二拍ぶん観察する。さっきよりも遅い。空気の重心が低くなったのだ。
廊下から、部活を終えた生徒の話し声がまた近づき、そして遠ざかった。凛音は扉の前に立ち、内側からノブを握る。金属は冷たく、なめらかで、いまは拍に合わせて揺れたりしない。
「ここまでにしよう」
凛音は言った。亜衣は頷き、譜面台の高さをそろえ直す。台はすべて角度同じ、列はまっすぐ。回収した曲集は、背表紙が揃うように箱に入れた。メトロノームの箱は、その一番下。上に紙が重なり、自然と重みがかかる。
片づけを終え、二人は教室を出た。廊下は薄暗く、床のワックスが淡く光っている。凛音は扉を閉める前、もう一度だけ室内を見渡した。何も動かない。息を飲み込む気配もない。彼女は鍵を回し、手を離す。
階段へ向かう途中、亜衣が足を止めた。踊り場の掲示板に貼られた紙の端が、わずかにめくれている。彼女はそれをそっと押さえ、テープを指でなでた。音は立てない。押さえた指を離すと、紙は静かになった。
「明日、最初は呼吸。四の前でためない」
凛音が横で言うと、亜衣は短くうなずいた。彼女の視線はまっすぐ前。手は空いていて、歩幅は一定。
階段を下りきると、昇降口のガラス戸に外の夕焼けが映っていた。赤すぎない、柔らかい色。二人は靴を履き替え、外に出る。校庭を横切る風は弱く、砂ぼこりを上げない。
門の前で、凛音は立ち止まり、振り返らずに一度だけ深呼吸した。胸に入った空気は素直に出ていき、喉に引っかからない。亜衣も同じタイミングで息を吐き、歩き出す。
原因は追わない。余白に点が並んだ理由を、言葉にしない。必要なのは、拍を整え、戻れる道を確認しておくこと。二人の足音は自然に揃い、校舎から離れるほど、軽くなっていった。
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