第3話_ドアノブの拍

 昼休みの校舎は、弁当の匂いと笑い声が重なって、廊下まで温度が上がっていた。窓の外には薄い雲がかかり、光は白く拡散している。凛音は合唱の個人練に使う譜面を抱え、空き教室へ向かう途中だった。曲の二段目、ブレスの位置をどう伝えるかを頭の中で並べ替えながら、彼女は歩幅を整える。

  階段を上がった踊り場で、彩菜が待っていた。彼女は手元の小さなメモに退室時間を書き込み、廊下の先を一度だけ見渡す。

  「空き教室、三つ取った。順番、貼っといた」

  凛音は彩菜の表情を一瞬読み取る。眉間の狭まり具合から、気持ちは急いでいるが焦りではない、と判断して頷いた。

  二人が目的の教室の前に立ったとき、ドアが少しだけ開いていた。誰かが風を入れようとしたのかもしれない。凛音が声をかける前に、教室の中の一年生がこちらに気づいて立ち上がる。頬は赤く、目の焦点がわずかに泳いでいる。

  「ごめん、ここ使ってる?」

  凛音は相手の視線が足元に落ちているのを見て、声をやわらげる。

  「すぐ終わるよ。次の部屋、案内するね」

  そのときだった。開いていたドアが、コツ、コツ、と微かな拍で揺れ始めた。ノブの金具がきしみ、一定の間隔で手前と奥へ、息をするように動く。教室の中の空気がそれに合わせて薄くなったように感じ、室内の一年生が息を詰めるのが見えた。

  彩菜が一歩、凛音より前に出る。余計な言葉は挟まない。ドアの縁に右手を添え、揺れの山が来る瞬間を二回分観察する。間隔はほぼ一定、一秒と少し。三回目の山に合わせて、彼女は軽く、しかし迷いなく押さえ込んだ。揺れは止まった――と思った刹那、背後の窓の桟がカタリと鳴り、ガラスが同じテンポでわずかに震え始めた。

  凛音は一年生の顔色をもう一度確認する。唇の端が固く、肩の位置が上がっている。説明を待つより、行動が先だ。

  「動こう。次の教室、行ける?」

  問いは短く、相手の頷きを見てから、凛音は譜面を抱え直し、肩幅に合わせた速度で歩き出す。廊下側に一年生、自分が内側。彩菜はドアを押さえたまま、顔だけで廊下の様子を確認する。

  「右、空いてる。曲がってすぐの教室。――今」

  彩菜の短い合図で、凛音は一年生を先に出し、自分は半歩後ろに付く。廊下の床は乾いている。転びにくい。背中で、先ほどの教室の窓がまたカタリと鳴った気配を感じたが、振り返らない。

  角を曲がると、空き教室の扉は閉じている。凛音は手首だけでノックを二度。中から返事はなく、鍵もかかっていない。静かに開けると、机が整然と並び、黒板の前に陽だまりができていた。

  「ここで。椅子は端から二つ目。まず呼吸だけ合わせよう」

  凛音は一年生の正面に立ち、胸の前で手を上げて、吸って、吐く。その間、言葉は最小限。相手の頬の色が少し戻ったのを確認してから、譜面の二段目を開き、指先でブレスの位置を軽く示した。

  「ここ。吸うのは浅くていい。次の拍までためない」

  一年生が小さく頷く。喉の上下が落ち着き、肩が一段降りた。

  廊下から戻ってきた彩菜は、扉の内側に立ち、手早く視線で部屋の安全を確かめる。窓、カーテン、換気口。異常なし。

  「動線、変える。さっきの教室は使わない。次からはここと、その向かい」

  彼女は紙片を取り出し、廊下の掲示に短い矢印を二本貼る。進む方向と戻る方向を分ける矢印だ。誰も立ち止まらず、ぶつからないための通り道。

  凛音は一年生の口元を見つめ、発声はさせず、口形だけで音の高さを示す。唇の開きが整ってきたところで、彼女は小さく頷き、目で「ここまで」を示す。無理に続けさせない。再開の目印だけを残して、いったん手を下ろす。

  その間も、廊下の遠くでは何かが一定の拍で微かに空気を叩いているような感じがあった。目に見えない振り子が、校舎のどこかで往復している。彩菜は扉を少しだけ開け、耳で廊下の音を拾う。右から三歩分、左から五歩分。その差を数え、判断を固める。

  「一列で移動。戻るときも右側通行。立ち止まらない」

  言い切ってから、凛音の視線を受け取る。凛音は一年生の肩に、軽く手を置いた。

  「ここで続けて。困ったら、手を挙げて」

  言葉はそれだけ。彼女は教室を出る前に、もう一度だけ一年生の目を見て、動揺の残り具合を確かめた。大丈夫。

  二人が廊下に戻ると、先ほどの教室の前に二年の男子が立っていた。自習用の譜面を抱え、肩を落としている。

  「ここ、使っていいですか」

  男子の目は扉ではなく床に落ち、声は小さい。凛音は彼の目線が上がるのを待ってから、ゆっくり首を横に振った。

  「向かいの部屋にして。今はこっちは使わない」

  彼が戸惑ったように凛音と彩菜の顔を見比べる。それを見て、彩菜が短く補足した。

  「移動の合図、貼ってる。矢印どおりに」

  男子は頷き、譜面を胸に抱え直して矢印の方向へ歩いて行く。

  凛音は、さっきの教室のドアノブを横目に見た。今は静かだが、金属の艶が妙に湿って見える。扉の奥に、空気の密度が均一でない一角があるような、そんな嫌な予感が喉の奥に貼り付く。

  「彩菜、ここ、閉めよう」

  「うん。鍵、借りてくる」

  彩菜は管理用の鍵を取りに走るのではなく、歩幅を崩さず速歩で事務室へ向かった。速度は一定、踵は床を打たない。廊下に余計な音を落とさない歩き方だ。

  待つ間、凛音は手帳を開き、さきほどの一年生の記録を数行だけ残す。ブレスの位置、口形の安定度、次回の導入。原因については何も書かない。ただ、動いた事実と対応だけを整然と記す。

  やがて彩菜が戻り、鍵を差し込む。回す前に、彼女はもう一度、扉の縁に指を沿わせた。振動はない。今なら閉められる。合図の代わりに、短く息を合わせて二人で頷く。鍵が回り、金具が噛み合うわずかな音が、廊下の雑音に吸い込まれた。

  「次の巡回、五分後」

  彩菜が腕時計を軽く叩き、予定を確定する。凛音はそれに合わせて、個人練のチェック順を入れ替えた。独習の子を一人だけにしないよう、隣室との時間差を減らす。扉が開く瞬間と閉じる瞬間が重ならないよう、拍をずらす。

  廊下を進むと、別の空き教室の中から、軽い鼻歌が漏れてきた。高すぎない音程、安定した息。凛音は中を覗き、歌っていた二年生に指で「続けて」を示す。彼女はすぐに視線を下ろし、足音を立てないように扉を閉めた。

  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、ドアノブの拍は戻らなかった。だが、二人の内側には、見えない拍が薄く残っている。歩幅、視線、合図。それらを揃えるほどに、校舎の空気は静かに整っていく。

  チャイムが止む。凛音は深く息を吐き、彩菜と目を合わせた。

  「午後、合唱。さっきの子、最初に見る」

  「了解。動線、さっきのまま。撤収の合図は私が出す」

  言葉は簡潔で、次の動きがはっきりと浮かぶ。原因は探らない。必要なのは、戻り道を乱さないこと。

  二人は列の最後尾に合わせて歩き出した。教室の前を過ぎるたび、黒板の白と窓の光が目の端で交互に入れ替わる。どの部屋の扉も、今は静かだ。凛音はそれを確認し続け、足音を揃えた。昼休みの余熱が廊下に漂う中、二人の作った細い動線だけが、まっすぐ音楽室へ戻っていく。

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