第20話 表記揺れ

 銀座の時計塔近くにあるティーサロンで、藤岡春斗が足をぱたぱたさせながら、おいしそうにチョコレートパフェを頬張っている。


 細長いスプーンで上品なチョコレートをすくい、フランベしたバナナをものすごく嬉しそうに口に運んだ。


 見ているこっちまで幸せになるような愛らしさに、高槻沙梨は思わず微笑んだ。


「おいしい? 春斗くん」


 こくこく頷く春斗の口元にチョコが付いてうる。


「付いてるよ」


 沙梨がわずかに身を伸ばし、お手拭きで口元を拭ってやる。


 急に接近されてどぎまぎしたのか、春斗が一瞬硬直した。


 愛らしい猫っ毛を撫でてやると、なんともいえず蕩けたような表情を浮かべた。


 十代若手作家対談のご褒美のチョコレートパフェと頭なでなで。


「それだけでいいの?」と言いたくなるぐらい欲がないが、ご馳走する沙梨も楽しみにしていたことだ。


 春斗が中学生の頃に出会って、今は大学生のはずだが、年々幼くなっているような印象がある。


 感情がすぐ顔に出るのは相変わらずで、可愛げも増している。


 前はもっとひねくれていて、わかる人だけがわかる愛らしさだった。


 高槻沙梨の親友であるアニメーターの大塚妃沙子が春斗を「小説妖精ハルちゃん」としてアニメに登場させたことから、妖精キャラとして存在を知られるようになった。


 各所で「ハルちゃん、可愛い」とマスコット扱いされるうち、現実の春斗もちょっとずつ可愛くなっていった。


「そうです。うちの子、可愛いんです」なんて親バカ発言をすると、先輩作家の沙梨は決まって母親扱いされてしまうが、実年齢はたかだか五歳ほどしか離れていない。


 姉弟に見えてもいいはずなのに、どうしてか母子の関係性になぞらえられる。


 春斗を愛でる会の同志である女優の霧島綾によれば、「おハルはだいたいにゃんこ」とのことだが、妖精でもあって、猫でもあって、なかなかに属性過多だなと思う。


「春斗くん。初めての公開対談、どうだった?」


 担当編集者の篠原に、春斗は無理やり十代若手作家対談に駆り出された。


「顔出しなんてイヤです。ネット上に公開されるのもイヤ。音声は加工して、顔に目線を入れるか、アニメキャラに差し替えといてください」などとさんざん駄々をこねていたが、「ちゃんとできたら、パフェ食べに連れて行ってあげる」と沙梨が言っただけで、コロッと態度を改めた。


 対談当日は死んだようなウンザリ顔だったが、その反動なのか、今日はやたらと機嫌がいい。


 ご褒美につられる小学生みたいだな、と思ったが、ご馳走する方もご褒美だった。


 左右に尻尾を振って、おいしそうにチョコレートパフェを頬張って、まあ可愛い。


 見た目だけでなく、精神年齢もどんどん幼くなっている気がするが、童顔を侮っていると異様なほど鋭いところがあるから、なかなか掴みどころがない。


「なんか、ぼくが罪バグのゴーストライターみたいになってませんか」


 春斗は不本意そうに細長いスプーンを咥えている。


「そうみたいだね。春斗くん、けっこうノリノリで幽霊ゴーストしてそうな気がするけど」


 沙梨が微笑すると、春斗はちょっと上目遣いで沙梨を見た。


 視線が合うと、恥ずかしいのか、すぐに視線を逸らす。


 なかなか人に慣れない妖精さんにしては珍しく、会話が続いている。


「関係者席で沙梨先生の隣にいたの、誰ですか」


 高槻沙梨の隣の子。


 そこ、ぼくの席なんですけど。


 そんな感じの嫉妬心なのか、沙梨は思わず春斗の頭を撫でた。


 関係者席までよく見ているなと思うが、実際、春斗はよく見ている。


「佐原景さん。佐原凜さんの弟で、小説家志望なんだって」


「……へー」


 春斗がものすごくどうでもよさそうな返事をした。


『罪とバグ』という作品には、「嫌いじゃない」と春斗的には最上級の褒め言葉を与えていたが、佐原景のことはどうでもいいらしい。


「春斗くん、なかなか鋭い指摘をしていたね。平仮名のぼくと、漢字の僕のとことか」


「ああ、あれ……」


 なんだかむしゃくしゃしながら、春斗はチョコレートパフェにスプーンを突き刺した。


「篠原さんと戦争したの?」


「はい」


「今度はどんな戦争?」


「平仮名のぼくと漢字の僕を混在させて書いたんです。そしたら、表記揺れだって」


 ――表記揺れは「あえて」ですか。どちらかに統一しますか。


 篠原からそんな指摘があり、春斗は静かにブチ切れていたらしい。


 ただ、二文字。


 ――ママ


 そうゲラに書き込んで、怒りながら返送したようだ。


(原文)、つまり、


 十代若手作家対談で『罪とバグ』の構造を見事に解剖してみせた春斗だが、実際のところは担当編集者の篠原との代理戦争だったらしい。


「春斗くん、けっこう恐れ知らずだよね。私、篠原さんに表記揺れを指摘されたら、すぐに直しちゃうかも」


 チョコレートパフェを完食した春斗は、名残惜しそうにスプーンをがじがじ齧っている。


「お代わりする?」


 うー、と春斗は唸り、「メニュー、欲しいです」とぼそっと言った。


 沙梨は店員を呼び、メニュー表を貰えるよう頼んだ。


「表記がゆらゆら揺れてるのが楽しいんじゃないですか」


「そうだね。意図的にやっているのに、ぜんぶ直せと言われると悲しくなるよね」


「うっせーわ、って思います」


 春斗はメロンパフェや白桃パフェに目移りしていたが、四千円前後もする値段を見て、「……高っ」と驚いていた。沙梨が優しく微笑んだ。


「気にしないでいいよ。好きなの食べて」

「じゃあ、プリン」


 春斗が注文したのは、七種類のフレッシュフルーツとアーモンドチュイルが添えられたプリン・ア・ラ・モードだった。


 沙梨が静かにダージリンを飲んでいると、お代わりのプリンが運ばれてきた。


「先生、食べますか」


「どうぞ、食べて」


 恋人関係でもないので、春斗がプリンを「あーん」なんて食べさせてくることもない。


 たぶん、一生そういうことは自分からはしないだろう。


 春斗は沙梨をちらちら見ながら、プリンをもそもそ食べている。


 食べなくていいんですか。

 ぼく、食べちゃいますけど。


 そういう気遣いだが、嬉しさを隠しきれずに食べている姿を見るのが愛おしい。


「春斗くんはプリンが似合うね」

「そうですか?」


 春斗がきょとんとしている。


 自分の魅力をよくわかっていない。


 そういうところが庇護欲をそそるのだろうか。


「罪バグの僕は、ぜんぶ漢字表記だったね」


 高槻沙梨はハンドバッグから『罪とバグ』の単行本を取り出した。


 話題の本なので沙梨も読んだが、現役のアイドルが書いたという話題性を抜きにしても、文学作品として一定の水準に達していると思えた。


「この作者、すごく真面目な性格なんでしょうね」


「友達になれそう?」


「どうでしょう。ぼく、ふわふわし過ぎで、嫌われるんじゃないですか」


 自分がフワフワしている自覚はあったらしい。


「春斗くんがゴーストをしていたら、どんな感じになったかな」


 とりあえず、表記は「ぼく」だろう。


 時々、硬くなって「僕」が混じるかもしれないが。


「優秀なゴーストがいるみたいなので、ぼくなんてお呼びじゃないんじゃないですか。この小説、遊び心がないというより、そうとしか書けない切実さがあるんですよね」


 そうとしか書けない切実さ。


 なかなか、詩的な表現だこと。


「今の世の中、小説を手に取ってもらうためには、何かしらの話題性がなければならない。良い作品を書いただけではなかなか広がらない。ゴーストライターなのかどうなのかわからないけど、アイドルの名で売り出したいというのはわからないでもないよね」


 高槻沙梨が一定の理解を示したが、春斗の考えは少し違うようだった。


「ぼく、篠原さんにめっちゃ言われるんですよね。藤岡さんには売るべき理由がないって」


「ああ、言う。言う。このテーマを高槻先生が書くべき理由はなんですか、とかね」


 書くべき理由、と訊ねられても、高尚な理由など特にない。


 書きたいから、書きました。


 正直なところ、執筆の理由はそれだけだったりする。


 書きたくない話はなかなか筆が進まない。


 売るべき理由。


 それは話題性と同義であるが、話題性があれば何でもいいのか、と聞き返したくなる。


 話題性を求めるのは編集者のさがで、とにかく良い作品を書きたいのが小説家の性だ。


 両者ががっちり手を組めたらいいのだが、時に対立もするし、反発もする。


 プリンをもそもそ頬張りながら、春斗がぽつりと言った。


「小説なんて、人をおちょくって遊ぶための最高の玩具おもちゃだから、べつに真面目に読む必要もないし、究極、作者が誰だっていいんですけど」


 春斗がどこか遠い目をする。


「ぼく、罪とバグけっこう好きなんですよ。僕がどんどん壊れていく感じ、あれはなかなか書けない。少なくとも、ぼくには書けない。本当の作者がいるなら、日の目を浴びないのはちょっと可哀そうだなって思います」


 高槻沙梨は頷き、ティーカップをソーサーに置いた。


 薄いオレンジ色のダージリンが波紋を作り、わずかに揺れた。


「でも、この小説不思議なんですよね」


「どんなところが?」


「僕は漢字で統一されているのに、ママンと母が混在しているじゃないですか」


 言われてみれば、たしかにその通りだった。


 アルベール・カミュの『異邦人』を借用した冒頭では、「ママン」。


 それ以外の箇所では、「母」。


 この子はほんとうに細かいところを指摘する。


 ただ、カミュの借用はただの演出だと言えばそれまでだろう。


「これを表記揺れというのは微妙じゃないかな」


 高槻沙梨が微妙に言い淀むと、春斗は小首を傾げた。


「この作者、ぼくと違って真面目な性格だと思うんです。表記揺れとかぜったい許せない。ママンなんて書いたら、そこだけおちゃらけてて浮くじゃないですか」


「そうね。きょう、が死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが。そう書かれていたら、ぜんぜん印象が違って見える」


 ただし、なんのインパクトもない凡庸な書き出しになってしまうけれど。


 そこまで深く読み込めているわけではないが、『罪とバグ』という小説は「僕」がひたすら壊れていく切実な物語だ。


 しかし、冒頭に「ママン」とあると、妙に人を食ったような感じがする。


 読者をおちょくる作風で、ふわふわした文体が持ち味の藤岡春斗が書いたならば、おそらくそれでいい。


 でも、ひたすら切実なこの物語には似つかわしくない気もする。


 いっそのこと、カミュを引用しないほうが雰囲気が一定するのではないだろうか。


「カミュの借用部分だけ、小説として浮いてるなとは思った」


「そうですね。でも、この引用は完全に意図的なものだと思うんです」


「どういうこと?」


 どうやら、沙梨の読みは浅かったようだ。


 沙梨の顔をちらりと伺い、春斗が何気ない調子でとんでもないことを口走った。


「これ、

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