第六章 そして妃は寵愛の冠を戴くー④

 その後、女官たちが寝殿へ入り掃除をしているあいだに、璃華は湯殿で身を清め、朝の身支度を整えた。

 やがて、豪奢な朝の御膳が運ばれてくる。

 あまりの豪華さに璃華は目を見張った。どうやら、皇后となった今、意地悪をしようとする者はいないらしい。


 食事を終えた璃華は、阿李にお茶を淹れてもらっていた。

 ほかの女官たちは部屋を下がっていたので、璃華は思い切って、こっそりと打ち明けることにした。


「……あ、あのね。じ、実は……き、昨日の夜……な、何も、なかったの」


 阿李は、お茶の器を片づけていた手をぴたりと止めた。


「……へ? えっ、えっ、あの、つまり……本当に?」


 大きく目を見開き、真剣な顔で璃華を見つめる阿李。

 璃華は恥ずかしさに顔を赤らめ、俯いたまま言葉をつなぐ。


「わ、私は……て、てっきり……そ、その、初夜って……そういうものだと……」


「おおぉ……っ、陛下、それはさすがに、抑えすぎでは……!」


 阿李は天井を仰ぎ、額を押さえながら小さく呻いた。


「ど、どこか……悪かったのかな。わ、私、へ、変な匂いでも……してた?」


 璃華は、不安げな眼差しで阿李を見つめた。


「しませんっ! むしろ、お香も髪も完璧でした!」


 阿李は即座に首を横に振り、力強く否定する。


「じゃあ……もしかして、れ、黎煌様は……わ、私に興味がない……とか? そ、それとも、私の身体に……み、魅力がないのかしら……」


 今にも泣き出しそうな顔で、璃華は声を震わせた。


「落ち着いてください、娘々! それはないです! 絶対ないです!」


「……ほ、本当に?」


 涙ぐみながら問う璃華に、阿李はすかさず胸を張って言った。


「たぶん、あまりにお美しかったので、陛下は理性を保つので精一杯だったのではと!」


「……そ、そんなこと……な、ないと思うけど……」


 璃華は小さく首を傾げ、半信半疑のまま目を伏せた。

理性を保たねばならない。そんな必要が、あったのだろうか。

 湛州国では、璃華はずっと蔑ろにされてきた。

 そうしたことを教わる機会など一度もなく、知識といえば、ほんのわずかしか持ち合わせていない。

 あまりに無知だったせいで、黎煌に見抜かれてしまったのかもしれない。


「わ、私……も、もっと皇后の勉強をしなくちゃ……。れ、黎煌様の、お、お役に立てるように……!」


 それには、おそらく、夜伽の心得も含まれているのだろう。

 皇后として、立派な世継ぎをもうけること。それもまた、大切な務めのひとつなのだから。

 前向きな表情へと変わっていく璃華の様子を見て、阿李はふっと微笑んだ。


「きっと陛下は、娘々のことが愛おしくてたまらないのですよ。だからこそ、焦らずに……少しずつ、成長していきましょう。私もご一緒に、璟嘉国の歴史や文化、礼儀作法をお勉強いたします!」


 阿李も一緒に歩んでくれる、そのことが、何より心強かった。

 皇后として、まだまだ自分は未熟だ。

 けれどこれから、ひとつずつ学んでいこうと思う。

 黎煌と並び、共に歩む者として──



 日が沈み、夜空に月が昇るころ。

 黎煌は、約束通り璃華の寝殿を訪れた。

 璃華は、薄衣に長裙をまとい、透ける羽衣をふわりと重ねた姿で彼を迎える。

 髪はゆるやかに結い上げられ、装飾は控えめながら、うなじからほのかに漂う香りが、艶やかな品を添えていた。


 璃華の姿を目にした瞬間、黎煌は思わず顔を赤らめる。

 ややぎこちない様子だったが、やがて表情に落ち着きが戻っていった。

 寝台の端に璃華がそっと腰を下ろし、黎煌も少し離れた位置に座る。


「……帰る場所が同じというのは、嬉しいものだな」


 黎煌は、どこか照れくさそうな笑みを浮かべながら言った。


「……は、はい。ね、猫だった頃を……思い出します」


 猫として過ごしていたあの頃──日中も夜も、常に彼のそばにいた。

 人の姿に戻った今よりも、ずっと近くにいられたような気がする。


「璃華を後宮に帰し……誰もいなくなった寝殿にひとりでいると、寂しさが募った」


 黎煌は遠くを見つめながら、そのときの風景を思い出すようにぽつりと呟いた。


「……こ、後宮に……来てくだされば、よ、良かったのに」


 璃華は、ずっと待っていたのだ。

 どれほど夜が遅くなろうとも、ほんの少しでも顔を見せてもらえたら、それだけでよかった。黎煌に、会いたかった。


「……会いに行ってしまえば、きっと気持ちを抑えられなくなっていただろう」


 黎煌はそう言って、璃華の顔を見つめた。


「……そ、そんなことをおっしゃいますが……さ、昨夜は……な、何もなかったでは、ありませんか……」


 璃華は俯きながら、消え入りそうな声でそう呟いた。

 言葉にした途端、顔が熱くなり、恥ずかしさで耳まで赤くなる。


「そ、それは……っ! ……抑えているんだ。必死でなっ!」


 黎煌は気まずそうに視線を逸らしながら、思わず本音を零した。


「……お、抑える……必要が……あ、ありますか?」


 璃華は、震える声でそう告げた。

 勇気を振り絞って口にした言葉に、顔から火が出そうなくらい熱くなる。

 黎煌はその言葉を聞いて、目を丸くし、動きを止めた。

 赤らんだ頬を俯かせ、緊張で肩をぎこちなく上げている璃華に、そっと手を伸ばす。

 けれど、その手は璃華に触れる寸前で、ふいに引っ込められた。


「……焦るつもりはない」


 黎煌は、静かに言葉を紡ぐ。


「正直……今すぐにでも璃華に触れたい。けれど、璃華はまだ心の準備ができていないかもしれない。急に皇后となり、戸惑っていることは、わかっている。だからこそ、俺の気持ちを押しつけて、璃華に無理をさせたくはないんだ」


 まっすぐな眼差しで、黎煌は璃華を見つめる。


「誰よりも、何よりも──璃華を、大切に想っている」


 その言葉とともに、黎煌はそっと璃華の頬に手を添えた。

 視線が、静かに絡み合う。


「愛している、璃華」


 誠実な愛の言葉が、重く、温かく、璃華の胸に深く沁みわたった。


(……私が想像するよりも、黎煌様は、ずっと私のことを想ってくださっていたんだ)


 その想いが確かに伝わり、胸の奥にあった不安は、すっと溶けて消えていった。

 黎煌の誠実さは、それだけで、璃華がさらに彼を好きになるには、十分すぎるほどだった。


「……わ、私も……愛しています」


 璃華の言葉に、黎煌は嬉しそうに微笑み、そっと彼女を引き寄せ、自らの胸に抱きしめた。

 柔らかな腕に包まれながら、璃華は幸せに満たされて、そっと瞳を閉じる。


(今は……これだけで、じゅうぶん)


 いつか、ふたりが一線を越える日が来るだろう。

 けれど、それは今ではない。

 璃華が、皇后として胸を張れるようになった時。

 きっと黎煌は、もう理性を抑えることなく、心のままに、夜を共にしてくれるだろう。

 璃華は、愛されているという確かな実感を胸に、そっと黎煌の胸元へ身を寄せた。


 寝台にかけられた金襴の紗の帳が、風に揺れ、しゃらりと音を立てる。

それは、夜の静けさに溶けてゆく、ふたりだけのやさしい音だった。


                                     【完】

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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~ 及川 桜 @hrt5014

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