第10話 白く輝く(愛の距離:カレン編)
――エルディア村の集会所には、村中の人々が集まっていた。
寝台に横たわる村長のゲノンは青ざめた顔で、汗に濡れた額を小刻みに揺らしている。薬師たちは首を振り、子どもたちは不安げに母親の袖を握った。
村人が口をひらく。
「……山の向こうの崖に、万能の薬草があると聞いたが……」
「しかし、あそこは険しすぎる。若い者だって、あの崖のあたりまでは行ったことがない」
「ほんとに薬草を見た人はいるのか?」
「仮に見つけたとして……その薬草が本当に効くのか?」
不安げな声が次々と飛び交い、室内にはざわめきが渦巻いた。
中には眉をひそめ、「危険すぎる。命を危険にさらす必要はない」と言う者もいる。
誰もが焦りを胸に抱えながらも、どうすることもできずにいた。
やがて、その声の渦を割るように、最前列に座っていた村の長老リヴェリアが、ゆっくりと目を開けて、静かに息を吐いた。
皺だらけのその顔は、アクアマリンブルーの瞳が輝いていた。
「崖じゃ。その薬草は崖に生えておる」
しわがれた声が、しかしはっきりと場に響く。
「そう、夏の草木が茶色に変わり、落ち葉が土に積もりだした、この季節……
凛と、白く輝く花を咲かせておるじゃろう」
その言葉に、ざわめきがぴたりと止まった。
無言のまま、村人たちが息をのむ。
重たい沈黙が落ちる。誰もが互いの顔を見合わせ、しかし口をつぐんでしまう。
――その静寂を破ったのは、ひとりの少女だった。
カレンがすくっと立ち上がり、胸の前で拳を握りしめた。
「……わたし……私が行きます!」
声が響いた瞬間、室内の空気が一変する。
驚きと戸惑いの視線がカレンに集まり、誰もが思わず息をのんだ。
「俺も行く」
低く落ち着いた声がすぐさま続く。
レオンが迷いなく手をあげ、その瞳はまっすぐカレンを見ていた。
「危ないぞ、あそこは。やめておきなさい」
義父のバロックが制する。
カレンの決意は揺るがないようだ。
「ゲノンお爺様には、私が小さな頃からお世話になったわ。私が行きます。行かせてください!」
「そんな無茶な……」
心配そうな声があちこちから上がったが、カレンとレオンの意思は固かった。
短い協議ののち、村人たちは二人の覚悟を見て黙り、そして静かに道具を整え始めた。
※ ※ ※
昼下がりの陽射しの下、二人はそれぞれの荷を背負い、集会所を後にした。
村の入口まで見送る人々の中から、子どもたちの「気をつけて!」という声が飛ぶ。
カレンは笑顔を作り、小さく手を振った。
「行こう」
レオンが短く告げ、二人は馬の手綱を引き、山道へと踏み出す。
――初めはなだらかな道だった。
けれど進むごとに道は細くなり、馬の蹄が小石をはじく音だけが続く。
木漏れ日がまだ明るく降り注ぐが、やがて樹々が密集し、影が長くのびていく。
風がそよぐたび、葉が触れ合って小さな音を立てる。
土と湿った苔の匂いが鼻をかすめ、遠くで鳥の声が聞こえた。
「……たぶん、こっちだ」
先頭を進むレオンが振り返る。
「昔、来たことがある。……ここから先は、馬じゃ無理だな」
二人は馬を止め、近くの丈夫な木に手綱をしっかりと結びつけた。
カレンは馬の首筋を撫でて囁く。
「いい子で待っててね……」
そこからは、人の気配はもちろん、動物の気配もない森の奥だった。
地面から大きな根が盛り上がり、足を取られるたびに息が上がる。
カレンの額にはじっとりと汗がにじみ、肩で呼吸をする。
「はぁ……っ……はぁ……」
「この森を抜けた向こうだ」
レオンが短く告げ、歩みを緩めてカレンを振り返った。
カレンは足を止めかけたが、視線を上げると、前を行くレオンの背中が夕陽を背負って頼もしく見えた。
やがて、巨大な根が階段のように張り出した場所に差しかかる。
レオンが手を差し伸べる。
「もう少しだ、カレン」
カレンはその手を握った――しかし、踏み出した足が湿った根に滑りかけた。
「きゃっ!」
思わず声が漏れる。
瞬間、レオンの手がぐっと力を込めて彼女を支えた。
「大丈夫か」
「……うん、ありがとう……レオン」
彼の手の温もりが、カレンの胸にまで広がる。
二人はしばらくそのまま手をつないだまま、足場の悪い森を進んだ。
握った手は不思議と心強く、心臓の鼓動が耳の奥で高鳴る。
やがて、木々が途切れ、視界がぱっと開ける。
――そこは、西に傾いた光が差し込む岩場だった。
風が頬を撫で、遠くに谷が見下ろせる。山の空気は冷たく、木々の間を抜ける風が心地よい。
だが、険しい岩場に二人は何度も足を止めた。
「こんなところに、本当に薬草が……?」
カレンは息を整えながらも、目をこらす。
「見つからない……」
やがて――夕日が傾きかけたころ。
山肌に、かすかに光るものが見えた。
そこには、白く輝く小さな花が、誇らしげに幾つも風に揺れていた。
「……あった!」
カレンは思わず駆け寄る。
「待て!足元に気をつけろ」
崖の縁ぎりぎりに身を乗り出し、カレンは手を伸ばす。
薬草を引き抜いた瞬間、石がぽろりと崩れた。
「きゃっ――!」
体が前に傾く。
次の瞬間、強い腕が彼女の腰ベルトをつかんだ。
「……っ危ない!」
レオンの声が谷に響く。
彼の胸に引き寄せられ、カレンは息をのむ。
レオンの腕の中、夕日の光が二人を包んでいた。
胸が高鳴る。
「あ、あの……だいじょうぶ、です……」
震える声でそう言いながら、薬草を握りしめた手がわずかに汗ばむ。
レオンはその手をそっと支え、視線を合わせた。
「よかった。カレン……」
夕日の赤が、彼の瞳の奥に宿る。
カレンはその瞳を見つめたまま、言葉を失った。
耳鳴りのように、自分の心臓の音だけが響いてくる。
「……カレン……」
レオンが低くつぶやく。
彼の手が、わずかに彼女の頬に触れた。
息をのむ間もなく、唇と唇が重なった。
――柔らかく……
――温かい感触……
風の音さえ、遠のいていく……
※ ※ ※
──帰り道
カレンは胸に抱えた薬草を見下ろし、頬を赤く染めていた。
隣を歩くレオンも、言葉少なに前を見つめている。
夕暮れの空の下、手をつないだ二人は静かに並んで歩き出す。
心臓の高鳴りが、まだ収まらないまま。
カレンの心にも、白く輝く花がそっと揺れていた……
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