第6話 祈る日々(星の導き:カレン編)
夕暮れのエルディアの村、バロックの家の窓から、夕飯の支度の匂いが漂ってくる。
台所ではエレーナがスープをかき混ぜながら、カレンに声をかけた。
「カレン、今夜はみんなで焚き火を囲む日よ。リヴェリアさんが子どもたちに昔話をしてくれるの」
「ええ、覚えているわ。お手伝いの後に、お祈りしてから行くね」
カレンは笑顔を見せ、手にした籠を整頓しながら答えた。
バロックはいつものように無言で狩り道具を壁に掛け、ふと振り返って一言だけ告げる。
「……お祈り、寒くないようにな」
「うん、ありがとう」
その不器用な優しさに、カレンは胸が温かくなる。
毎晩、カレンは星に祈りを捧げている。いつもは村外れの小さな教会の広場にひとり立ち、夜空に言葉を紡ぐのが習慣だった。
だけど今夜は、村人たちも集まる焚き火の日。
(今夜は……祈りのときも、一人ぼっちじゃないわね)
そう思うと、胸の奥がやさしく満たされた。
夜風が冷たい。草の葉が夜露をまとい、遠くの川のせせらぎがかすかに耳に届く。 教会の広場にたどり着いたカレンは、胸元のペンダントをそっと握りしめ、夜空を仰いだ。
月が雲間から顔を出し、星々が深い青にまたたいている。
「……今日も無事に、幸せな日を暮らすことができました。いつもありがとうございます。ソフィアお姉様も、どうか幸せに暮らしていますようにお守りください。 エルディアの人々も幸せでありますように…… リュミエール の 皆が、幸せでありますように…… いつもありがとうございます……」
夜風が頬を撫で、彼女は深く息をついた。
「……LUMIÈRE DEAR ZOĒ AURORA…… (リュミエル・ディア・ゾーエ・アウローラ……)」
その瞬間、カレンの胸元で揺れるペンダントが、月明かりを受けてかすかに瞬いた。背後から、賑やかな笑い声が広場に届く。カレンは祈りを終え、足を向けた。
――村の広場。焚き火を囲む夜。
ぱちぱちと薪がはぜる音。温かな炎の周りで、子どもたちが丸く座っている。
村の長老リヴェリアは長椅子に腰かけた。白髪をきちんと後ろでまとめ、深い皺を刻んだ顔に穏やかな笑み。
ゆったりとした声で語りはじめた。
最初の昔話は、森に住む大きな獣の物語。リヴェリアがその獣のうなり声を真似ると、子どもたちは肩を寄せ合って「こわい……!」と小さく悲鳴をあげる。
続く話は、湖の精霊のいたずら話。リヴェリアが面白おかしく言葉を重ねると、子どもたちは声をあげて笑い転げた。炎の向こうで、小さな手が拍手をする。
次の物語では、勇敢な少年と老騎士の冒険譚が語られ、子どもたちは一生懸命耳を傾け、息をのむ。
焚き火の明かりがリヴェリアの横顔をやさしく照らす。その瞳は夜空を映すようなきれいなブルーを湛えていた。
物語がひと区切りつくと、リヴェリアは微笑んで告げた。
「じゃあ、今日の最後のお話しは……『ふたつの星』のお話しだよ」
焚き火の音が一瞬だけ静まり、夜風が草を揺らした。
子どもたちが目を輝かせ、カレンも輪の中でそっと背筋を伸ばした。
「……むかし、空からふたつの星が降りてきました」
リヴェリアが語りだすと、焚き火の炎が彼女の横顔を照らし、その瞳はアクアマリンのように輝いた。
「ふたつの星?」
「ええ。村人達は苦しみと悲しみの底にいました。そんな時にふたつの星が降りてきたのです……その星はやがて、人々の心にも光を灯しました。村人達は、ふたつの星を女神だと信じました」
「遠く離ればなれになった星の子達は、何百年にも渡る旅の末、ふたたびその地に戻ったのです。それは偶然のようですが、必然だったのでしょう。豊かな実りと、争いを鎮める為に……」
子どもたちの瞳がきらきらと光る。カレンも輪の中で静かに耳を傾けていた。
するとリヴェリアは、一段と声をおおきく、天を指さした。
「そしていつか再び、ふたりの女神の力が必要な時がくるでしょう」
リヴェリアはふと夜空を仰ぎ、遠い星を見つめる。
「さあ、今日はもうおやすみ。星たちも、あなたたちを見守っていますよ」
子どもたちは名残惜しそうに立ち上がり、家路につく。
広場には焚き火の光と、夜風にそよぐ木々の影が残った。カレンはその場に少し残り、炎に照らされるリヴェリアの横顔をじっと見つめていた。
今夜は――星々も、村の人々も、確かに彼女を見守っていた。
そのぬくもりを胸に、カレンはそっとペンダントに触れ、また静かに夜空を見上げた……
※ ※ ※
村は今日も、朝の光と共に目を覚ましていた。
馬小屋では、カレンが干し草を抱えて馬たちの前へと運んでいる。小屋の中は干し草と土の香りが混じり合い、馬たちが穏やかに鼻を鳴らした。
「はい、どうぞ。いっぱい食べてね」
カレンがやわらかく声をかけると、馬は耳をぴんと立てて彼女の手のひらから草を食む。その仕草にカレンは小さく笑みを浮かべた。
だが、ある日の牧場では、突然暴れだした一頭の馬がいた。鎖を引きちぎらんばかりにいななき、バロックが駆け寄る。
「おい、落ち着け!」
しかし暴れる馬の前で、バロックは思わず足を滑らせて転倒し、脚を痛めてしまう。
「父さん!」とティオが叫ぶが、馬はなおも暴れ続けている。
その瞬間、カレンが馬柵を飛び越えた。
「大丈夫……大丈夫だよ……」
カレンは馬に向かってそっと手を伸ばす。
その瞳は、遠い昔に姉と共に見た星空のように澄んでいた。馬は息を荒げていたが、カレンの手に鼻先が触れた瞬間、ぴたりと動きを止める。そして耳を伏せ、静かに彼女の胸元に顔を寄せた。
「……すごい……」
バロックも若者たちも、息を呑んでその光景を見ていた。
まるで馬たちが、彼女の言葉を理解しているかのようだった。
それから数日後。
バロックの怪我が癒えてくると、カレンは彼を手伝うように馬と共に狩りの訓練に参加した。
「行くぞ」
バロックの声に、カレンは馬の背に軽やかに飛び乗る。
森の小道を抜け、狩りへと向かうその道すがら、風がふたりの髪を揺らした。
「カレン、無理するなよ」
「うん、大丈夫。私、馬に乗るのが好きなの」
その言葉に、バロックはほんの少しだけ微笑み、前を向いた。
木々の合間から差し込む光の中、ふたりの馬の足音がリズムを刻む。やがて森の奥へと進んでいった。
※ ※ ※
ある日、村長のゲノンと村の若者二人が家に訪れた。
彼らの背には、重く大きな獲物を運んできた気配があった。玄関先に置かれた籠からは、野の香りが漂っていた。狩りで大物を仕留めたようだ。
夕暮れの台所。
窓の外では、帰りの鳥たちが枝を渡る音がしている。
マーニャは大きな調理台の前に立ち、静かに布をめくった。
そこに横たわる鹿の姿を見て、カレンは思わず息をのむ。
「この子はね、山で太陽の光と風を浴びて、草を食べて生きてきた。私たちはその命を分けてもらって生きているんだよ」
マーニャはそう言うと、そっと手を合わせた。その仕草は、どこかお祈りにも似ていて、カレンの胸がきゅっと締めつけられる。目の前にあるのは、ついさっきまで生きていた命。その現実が、カレンの胸の奥にじわりと広がっていく。
マーニャの手元が静かに動く。鋭い音や赤いものは見えない。ただ、丁寧に、慈しむように作業が進んでいく。カレンは思わず手を胸の前で組んだまま、じっとその背中を見つめた。
「カレン。覚えておきな。食べるっていうのはね、ただお腹を満たすことじゃない。誰かの命をもらって、自分が生きるってこと」
マーニャはそこで一度手を止め、やさしく言葉を継いだ。
「この子だけじゃない。鳥も魚も、森で拾う木の実も、畑でとれる野菜も、果物も……そこいらの草さえも、命がある。それだけじゃないよ、カレン。井戸からくむ水だって、長い旅をしてきたものだし、焚き木にする木だって、何年も風に負けずに立ってきた命なんだ。そのすべてを、私たちは『いただいている』のよ」
カレンはその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(私……もっと大切に食べなきゃ。もっと、感謝しなきゃ……。命……。命をいただいて、生かせてもらっている。この命を大切にしなきゃ)
マーニャが微笑み、カレンの頭をやさしく撫でた。
「それが理解できれば、もう立派な村の娘さ」
カレンの瞳は、ほんのり潤んでいた。
窓の外では、夕陽が山の向こうに沈みかけていた。
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