②お味はいかが(いちご/記憶/飛行機)
「あー、これもうだめだ」
空は遠く。境界の無い無地の青色に、飛行機雲がまっすぐな線を描いている。それを眺めながら、手元のグラスに麦茶を注いだ。
ベランダに続くガラス戸が開け放たれたままだから、声だけじゃなく外の熱気までこっちに届けてくる。顔だけ外に出して、彼女の手元を覗き込んだ。
「あーあ」
ベランダの隅っこ、日陰に置かれたいちごの苗。そこに実った小さないちご。それを覆う黒。彼女の落胆の意味を理解する。
それは、彼女が持ってきた。夏に収穫できるという珍しいいちごの品種らしい。
葉が伸び、つぼみが開き、実を結び。そんな過程を二人で密かに楽しんで、そしてようやく、今日収穫の予定だったのだが、一歩遅かった。赤はすっかり蟻に覆われてしまっている。蟻が二階のベランダまで登ってくるとは思わなかった。
「やっぱりプチトマトにすればよかったのに」
あかあかと熟したちいさな一粒のいちごはもうすっかり蟻のものになってしまった。彼女は諦めきれなかったのか、暫くいちごを見つめていたけれど、やっぱり食べる気にはなれなかったようだ。重い足取りで部屋の中へと戻ってくる。
「だって、品種の名前が良かったから」
ちょっと拗ねたような声。不機嫌ではない。多分。
目線が何かを探している。エアコンのリモコンを渡してみると、彼女はひとつ、満足そうに頷いた。ぴ、ぴ、と軽快な音がして冷風が少し強まる。ほっと息を吐く。
「なんていう品種なの?」
待ってましたと言わんばかり、嬉しそうなにやり顔がこちらを見る。正解を待つ僕を横目に、彼女は勿体付けるみたいに黙ったままグラスの中身を空にした。僕が知っているいちごの品種といえば、とちおとめとか、あまおうとか。そのくらいしか思い浮かばない。
「夏瑞希って」
充分な間を開けてから、品種の名前が発表される。
「夏美と、瑞樹。ね、いい名前」
彼女の指が自分と僕を交互に指さした。
咄嗟に、いちごの苗の方に視線をやる。さっきはあっさり諦められたのに、たったそれだけで歯切れが悪くなる。蟻には悪いが、全部追い払って、よくよく洗って、外側を少しカットすれば食べられるだろうか。そんな甘酸っぱい希望が首を擡げる。提案をしようとして、言葉は飲み込んだ。
「でもきっとこの蟻たち、夏美に感謝してるよ。おかげで今年も夏が越えられそうですーって」
「ふふ、なにそれ。まあ、暑いもんね」
ほんのり赤くなった頬が綻んで、表情が和らぐ。
「蟻の恩返しとかあるかな?」
「金銀財宝?」
空いたグラスに麦茶を注ぐ。
「少なくとも蟻たちの記憶には残って……代々語り継がれるかも」
「それならいいかぁ」
どちらからでもなく、二人で窓の外に視線を向けた。空に引かれていた境界線は、もうすっかり解けて青の一部になっていた。
三時のおやつはクッキーを 飴筆いんく @mao-ame
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