chapter10:Sidecar

『サイドカー』


ブランデーとコアントロー、そしてレモンジュース。

重厚な甘み、柑橘の酸味、そしてほんの少しの苦味。


メインの横に控える、サイドカー。


だが、その存在がなければ、走れない夜もある。

補い合い、すれ違い、また走り出すために。


—————————


開店から三週間。

Bar 3rd Fridayは、相変わらずの静けさを守りながら、微かな熱を孕んでいた。


「氷、もっと小さく割って」


「そんなに細かくしなくても、味は変わらないよ」


「変わるんです。溶け方が違うから」


「でも、こんなことして、回転率が──」


「この店の“回転率”で来てるお客さんって、いますか?」


カウンターの内側で、グラスを挟んで火花が散る。


沢渡と有村。

店の未来を語ったあの夜から、一緒に立つことが日常になった。

だが、日常には、意見の違いがつきものだ。


「じゃあ、メニューを変えたいって話は、どうする?」


「私は、この場所を“居場所”にしたいんです」


「そうだけど。居場所にするなら、なおさらメニューの選択肢が必要だろ」


「……そうですけど。

今は、バーとしての最低限のカクテル作りをマスターしてもらわないと……」


一瞬、沈黙。


沢渡はため息をついた。


「悪かったよ」


「いえ……私の言い方も悪かったです」


互いに譲れないものを持っていた。

それでも、夜が更け、照明が落ちて、客が少しずつ増えていくと、自然と立ち位置が整っていく。


氷を割る音。シェイカーのリズム。

不思議と、音だけは噛み合っていた。


————————


そんなある夜、常連らしき年配の女性が来店した。


「……ここ、前と変わったわね。でも、以前の空気も残ってる」


カウンターでサイドカーを注文したその女性は、グラスを見つめながら微笑んだ。


「このお酒、好きなの。添えるようで、支えるようで」


有村が黙ってうなずく。

沢渡は、その言葉に何かを噛みしめたようにグラスを拭いた。


—————————


閉店後、有村がぽつりと言った。


「……最初から、うまくいくと思ってませんでした」


「俺も。というか、今もわからない」


「でも、悪くないですよね。今日のこの感じで、お客様が喜んでくれるなら。」


「うん」


夜風が店内に流れ込む。

照明を落としたカウンターで、二人はしばらく黙っていた。


「……ねえ、沢渡さん」


「ん?」


「もし、もう一度同じことがあったとしても、またこの店、選びますか?」


「……選ぶ。迷わずね。」


有村は、グラスを拭く手を止めて、少しだけ笑った。


「私もです」


灯りのない店内に、グラスの音だけが優しく響いていた。

その夜、二人の心に、小さな火が灯った。



次の春には──ひとつの花が咲くだろう。


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