Chapter 9:Blue Boulevardier
『ブルー・ブールヴァルディエ』
ライ・ウイスキー、カンパリ、スイートベルモット──そこに、青い光を差すようにブルーキュラソーを一滴。
深紅のカクテルが、青に染まる。
空の青ではない。これは、決意の色だ。
鮮やかさの奥に、渋みと火照りを残すその一杯は、過去と未来の狭間に立つ者が選ぶカクテル。
進むと決めた夜にこそ、ふさわしい。
————————
──このままじゃ、ここがなくなる。
そう思った瞬間、もう答えは決まっていた。理屈ではなかった。
沢渡誠は、その金曜の夕方、ふたたびBar 3rd Fridayの扉を押した。
カウンターの奥には、マスターがいた。
だが、その背中はどこか静かで、決まりきった別れを背負っているように見えた。
「店、閉めるって──本気だったんですか?」
問いかけに、マスターは黙ってうなずいた。
沢渡は視線を落とし、グラスの中を見つめたまま、言葉を続けた。
「……この場所を、なくさないでほしい。俺と有村さんで、引き継がせてください」
その声は静かだったが、迷いは一切なかった。
マスターは無言のまま、棚から一本のボトルを取り出した。
カウンターの灯りに、ブルーキュラソーの青が揺れる。
「Blue Boulevardier。今日のおまえには、これが似合う」
差し出された一杯。
グラスの中の青が、静かに揺れた。
「灯りは、引き継がれる。ただ、それだけだ」
それがマスターのすべての答えだった。
————————
翌日の午後、有村と向き合った。
「本気で言ってくれて、嬉しいです」
彼女はそう言いながら、ふと目を伏せた。
「……でも、ひとつだけ、言わせてください」
「うん?」
「私はこの店を“夢”にしたくないんです。現実として、きちんと守り続けたい」
「わかってる。だから、俺が必要なんだろ?」
有村は微笑んだ。少し、泣きそうな顔で。
—————————
数日後、店の模様替えが始まった。
といっても、大きな変化はない。
椅子の配置、照明の角度、棚の整理──ほんのわずかな、けれど意味のある変化。
「この棚、前の店でもこんなだったの?」
沢渡が訊ねると、有村は手を止めた。
「……前の店では、こんな風に人を見なかったんです」
「どういう意味?」
「私、ソムリエだった頃、ワインの説明ばかりしてました。語ることで、距離をとってた。
客の顔じゃなくて、ラベルばかり見てたんです」
沢渡も手を止めた。
「今は?」
「ここでは、人の目を見て話せるようになりました。……まだまだ修行中ですが」
照明の下、彼女の横顔は少しだけ過去と和解していた。
そこへ、ふいに神原が現れた。
「おい、なんか忙しそうだな」
スーツの上着を肩にかけた姿は相変わらずだったが、目の奥に以前よりも落ち着いた影があった。
「なんだ、おまえが手伝うのか?」
「たまたま近く通っただけだよ。春日とのデート前に、な」
沢渡と神原は顔を見合わせて笑った。
かつての“第3金曜日”の空気が、ふとよみがえる。
「ま、な。振られても、今回は何度かアタックしたし。
……昔の俺なら、カッコつけて終わってたかもしれないけど。そろそろ、変わらないとな」
カウンターの奥で、有村が優しく微笑んでいた。
灯りの下、それぞれの過去が、静かに色を変えていくようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます