Chapter 3:Old Fashioned
『オールド・ファッションド』
バーボンの苦味と、角砂糖のわずかな甘さ。それを潰して、オレンジの皮で香りづけする。
名前の通り、古いやり方でつくられる酒。
でも──古いやり方だからこそ、染み込むのが早い夜もある。
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その夜、最初に店へ来たのは離婚男だった。
いつもは水割りを頼む彼が、カウンターに腰を下ろすなり言った。
「今日は、強いのがいいです」
「了解」
俺は頷き、バーボンと角砂糖を用意した。
ステアで仕上げ、オールド・ファッションドを差し出す。
「……いい色ですね」
彼は少しだけ微笑んだが、目の奥は沈んでいた。
ほどなくして、IT男がやってきた。
「……なんか、重ための空気だな」
「そう見えるか?」
「お前がそういう顔してる時は、大体なんかある」
「察しがいいな」
「職業柄、勘は大事でね」
「じゃあ、少しだけ」
離婚男──沢渡は、ゆっくりと口を開いた。
「たまには、自分の話をしてもいい頃かと思ってね」
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結婚して6年。
最初の2年は、それなりに穏やかだったと思う。
けれど、子どもができなかった。
検査を受けた結果、自分に原因があるとわかった。
医学的には可能性がゼロではない。でも、限りなく低い。
その日、妻は何も言わなかった。
けれど、それ以降、会話には棘が混じるようになった。
「私ばっかり、我慢してる」
「どうせ分かってくれない」
言い返せなかった。
悪いのは自分だと思っていたから。
夫婦の会話は減っていった。
そして、寝室が分かれた。触れ合うことも、なくなった。
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そんな頃だった。
取引先の女性と、業務後に偶然二人きりになることがあった。
彼女とは、普段は営業の顔合わせ程度の関係だった。
その日は、取引先の急な調整で、昼過ぎに会うことになった。
時計を見ると、13時半を回っていた。
「……遅くなってすみません。 お昼、もう食べられました?」
そう訊くと、彼女は少し笑った。
「いえ、まだです。 沢渡さん、この辺、コンビニくらいしかなくて」
「良かったら、軽く何か食べませんか? 遅くなったお詫びも兼ねて」
「じゃあ……近くに、カフェがひとつあります」
彼女の提案で、駅前のカフェに入った。
話した内容は、仕事でも家庭でもなかった。
けれど、彼女が何も訊かずに一緒にいてくれた時間が、妙に心に残った。
その夜、彼女に誘われるまま、もう一軒飲みに行った。
タクシーを待っていた時、彼女がぽつりと言った。
「誠さん、このまま帰りたくないな」
──ほんの一度だけだった。 すべてが、重なっていた。 けれど、それでも──
はっきりと、一線は越えた。
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それから、妻との距離はさらに広がった。
ある夜、彼が何気なく肩に触れようとしたとき、 妻はすっと身を引いた。
そしてある日、仕事から帰ると、部屋の明かりが消えていた。
妻の私物が、すべて消えていた。
冷蔵庫に、ひとつのメモが残っていた。
「あなたは、悪気がないのだと思う。
でも、あなたの沈黙が、一番きつかった。」
—————————————
「……それきりだよ」
沢渡は、グラスを見つめたまま言った。
「書類も郵送。あっけないもんだ」
「相手の女性とは?」
IT男が訊いた。
「それきり。 最初から、何かを求めていたわけじゃなかった」
「でも、あの夜だけは── 自分が“誰でもない自分”でいられた気がしたんだ」
沈黙。
「そんな夜も、あるよ」 マスターが静かに言う。
「もう一杯、いくかい?」
「……今夜はこれで、充分です」
IT男がスマホをポケットから出しながら言った。
「じゃあ、来月の第3金曜は、また俺の番か」
「次は、少し気楽な話にしてくれ」
沢渡が、静かに笑った。
東京タワーが、春の空にぼんやりとにじんでいた。
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Old Fashioned
苦くて、古いやり方の酒。
けれど、それを潰す手の温度だけは、なぜか──まだ、記憶に残っている。
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