Chapter 2:Gin Fizz

『ジン・フィズ』


ジンとレモン、わずかな甘味に、炭酸がそっと寄り添う。 爽やかで、軽やか。でも、バランスをひとつ誤れば、ただの水っぽい酒になる。


安定と刺激の間で揺れる夜──春の気配は、いつもそんな味がする。


——————————


あの夜も、第3金曜日だった。


東京タワーの灯りは、少しだけ霞んでいた。 三月の終わり。


風は柔らかくなってきたが、日暮れの冷えはまだ残る。 静かな夜だった。


先に店へ来たのは、彼だった。


スーツの上着を丁寧にたたみ、ハンガーにかける。

ネクタイを緩め、席に着くまでの動きに一切の無駄がない。


この店の常連たちの中で、最も礼儀正しく、そして最も“疲れ”を隠すのが上手い男。


「こんばんは、マスター」


「よう」


「少し、炭酸の入った軽めのものでお願いします」


俺は黙って、グラスを差し出した。


「……Gin Fizz、ですか」


「ああ。春の手前には、これが合う」


彼は小さく笑い、一口だけ口をつけた。


ちょうどその頃、残る一人が扉を開けた。


「お、今日は真面目な顔してるな」


IT男が軽く口笛を鳴らしながらカウンターに座る。


「いや……いつもの顔だよ」


彼は少しだけ眉を上げて笑った。


「うん、“転職するか、浮気するか”で迷ってる顔に見えるな」


IT男の軽口に、離婚男が苦笑する。


「それ、地味に失礼だよ」


ジン・フィズを口に運びながら、彼は穏やかに返した。


「で、実際のところ、どっち?」


「両方とも、考えてないよ」


「“まだ”って言ってないだけじゃないか」


俺は黙って、IT男に酒を差し出す。


「今日は?」


「お任せで。あまり苦くないやつで頼みます」


「了解」


「……で、話戻すけど」


IT男が続けた。


「最近、お前の顔つきが変わったと思ったんだよね」


「そうかな?」


「職場に、いい感じの子でもいるの?」


彼は一瞬、グラスの中の炭酸を見つめた。


「……まあ、挨拶する程度の人はいるよ」


「“挨拶する程度”ってやつが、一番危ないんだよ」


IT男が笑いながら言う。


「……お前は、踏みとどまったんだな」


離婚男の声は、低く落ち着いていた。


————————


回想:


あの夜、異動者の歓迎会の帰り道。 タクシー待ちの列で、彼女が隣に並んだ。


「今日はお疲れ様でした」


彼女から先に声をかけてきた。

少しハスキーで、よく通る声だった。


「お疲れさま。広報、今日が初出勤だったんだっけ?」


「はい。緊張しましたけど、想像より穏やかで助かりました」


「それはよかった。ウチの部はちょっと体育会系だけど、広報は落ち着いてるしな」


「……いえ、正直言うと、あの飲みのテンポはだいぶ驚きました」


「はは、それは慣れ。俺も昔は潰されかけた」


「……それでも残ってるってことは、結構タフなんですね」


彼女は前を向いたまま、ふっと笑った。


—————————


数日後、廊下ですれ違ったとき、彼女が軽く頭を下げた。


「この前の歓迎会、ありがとうございました。助かりました」


「いやいや。こちらこそ、お疲れさまだったね」


それだけの会話だった。


だがその夜、家に帰ると、妻はテレビを見ていた。


「ごはんは?」とだけ聞かれ、「うん」と頷く。


それで終わった。


別に悪い空気ではない。


ただ、“話さなくても成立する関係”が、少しだけ息苦しくなっていた。


—————————


翌週、部署横断の勉強会。


彼女の発言は、言葉を選びながらも芯があった。 終了後、エレベーター前でまた会った。


「お疲れさまでした。先にどうぞ」


「いや、一緒に行こう」


外に出ると、雨が降っていた。


彼女はビニール傘を差しながら、ふと振り返った。


「私、向かいのビルなので、こっちなんです。では、また」


ほんの一瞬、彼女の視線が残った。


呼び止めようかと思った。


「一杯どうですか」と言えば、自然だったかもしれない。


でも、言わなかった。


自分の足音だけが、濡れた舗道に残っていた。


————————


現在:


「……何もしてないよ。ただ、それだけの話だよ」


「それでも、一線は越えなかったんだな……俺には、できなかったよ」


離婚男が言う。


「“何もしてない”って、自分で言う時って、大体もう何か始まってるんだよ」


IT男が、苦笑まじりに言った。


彼は目を閉じるように、静かに息をついた。


「家庭を壊す気は、モチロンないよ。

でも──あの時、雨が降ってなかったら、声をかけてたかもな」


俺は何も言わなかった。ただ、グラスを片付けながら訊いた。


「もう一杯、要るか?」


彼は首を振った。


「今夜は、これで充分です。

……来月も、皆、空いてるかい?」


「当然だ」


IT男が口を挟む。


「次はお前だろ。何だかんだで一番引っ張ってんだからな」


「じゃあ、次は──もう少し、気楽な話をするよ」


離婚男はそう言って、ネクタイを締め直す。


東京タワーの灯が、夜の空ににじんでいた。


————————


Gin Fizz


軽やかで、穏やか。けれど、崩れるのは一瞬。

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