Chapter 4:Rusty Nail
『ラスティ・ネイル』
ドランブイとスコッチを合わせた酒、ラスティ・ネイル。 ハチミツとハーブの甘み、麦の渋み。 熟れて、枯れて、それでも香る余韻。
この一杯を好む人間は、決まって「名前の由来なんて気にしない」と言う。
──大事なのは、夜を越えることだと知っているから。
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第3金曜日の夜。
店内はまだ静かで、開店から1時間ほどが経っていた。
俺はいつものように、氷を仕込み、棚の奥からドランブイを取り出す。
スコッチと合わせて、ゆっくりとステア。
自分のために作る酒は、いつだってこの一杯だった。
カウンターに腰を下ろし、自分で注いだグラスを傾ける。
東京タワーが、夜の向こうにかすかに滲んでいた。
この店を始めて、もう何年が経っただろう。
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──あの夜も、金曜日だった。
ちょうど、月の3週目。たまたま、そうだった。
当時、俺は帝国ホテルのバーで働いていた。
40代の終わり。まだ一線に立っていた。
背が伸び始めた息子と、気を回してくれる妻とのささやかな日常。
特別ではないが、きちんと大切にできていた時間だった。
電話が鳴ったのは、夕方。
病院からだった。事故。信号無視の車。
妻と息子は──戻ってこなかった。
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事故からの数ヶ月、俺はただ、生きていたというだけだった。
ホテルのバーには復帰せず、職場を辞した。
半年ほどが過ぎた頃、昔のバー時代の先輩から連絡が来た。
「今夜、一杯つきあえよ。悪い酒は出さない」
神谷町の路地裏。10席にも満たない小さなバー。
琥珀色のカクテル──Rusty Nail。
「飲んだこと、あったか?」
「いえ、たぶん初めてです」
──これは、時間の味だ。
喪失のあと、初めて「何かをまた手にした」気がした。
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数日後、浜松町の裏通りにある古いテナントを見に行った。
駅から少し外れた、小さなビルの2階。
ガラス張りの窓から、東京タワーの上半分が静かに浮かんでいた。
その夜はなぜか、胸の奥にしみ込むような光に見えた。
その空間に立った瞬間、思った。
──ここなら、夜を受け止められるかもしれない。
開業届を出す日、屋号を訊かれて、しばらく考えて、静かに答えた。
「Bar 3rd Friday」
あの日から、毎月、同じ日に墓地へ通った。第3金曜日。
妻と息子が眠る、小さな納骨堂に、決まってその日だけは足を運んだ。
誰にも言わなかった。
けれど、その時間がなければ、今の自分はどこにもいなかった。
だから、あの記憶を“誰かの帰る夜”に変えたかった。
この店の名は、俺にとっては記憶の灯だ。
そしていつか、誰かにとっても、そうなればいいと思ってる。
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Rusty Nail。
古くて、錆びついた釘。
けれど、それが残した傷跡に、光が差す夜もある。
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グラスの底に残った琥珀色の液体を、ゆっくりと口に運ぶ。
Rusty Nail──今日も変わらない味だった。
時計を見ると、そろそろ、いつもの3人の顔ぶれが現れる頃だった。
氷のストックを確認し、手ぬぐいでカウンターをもう一度磨く。
東京タワーが、夜風に揺れる光の粒を落とす。
誰かの夜が、また静かに始まる。
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ドアのベルが鳴った。
最初に現れたのは、軽い足取りのIT男。
「こんばんは」
と笑うその声に、俺は静かに頷いた。
「今日は俺の番ですよ。少しだけ、ややこしい話かもしれません」
「そうか。……じゃあ、整えておこう」
いつものように、カウンターの奥で氷を掬う。
ゆっくりと、それをグラスに落とす音だけが、店に、最初のリズムを運んでくる。
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ここは、夜を静かに受け止める場所。
名前なんて、きっとどうでもいい。
でも、誰かにとって、それが“帰ってこられる理由”になるなら──
それで、十分だった。
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