第6話


 実のところ荀攸じゅんゆうが女の正確な正体も、あの屋敷が一体どこにあったのかも、分かったのは随分後のことだった。

 

 芙綺ふきも、奉孝ほうこうとだけ名乗った郭嘉かくかも、その時は本当に素性を何も語らなかったから、荀攸は何も分からなかった。


 最初はそのことで、何か胸につかえがあったのだが、

 屋敷にいつも美しい音楽が響き、庭先で芙綺ふきや郭嘉が花見をして、他愛の無い話をしていたり、侍女達と遊んでいたりしている日常に慣れてくると、確かに胸のつかえ以上に、ずっと引きずっていた闇の記憶が、徐々に遠ざかって行くのを感じた。


 何も考えなくなり、やがてゆっくりだが弱っていた足で一人でも歩けるようになると、まるで桃源郷のように美しいこの謎めいた屋敷で一日中ぼんやりと過ごすようになった。


 芙綺ふきと郭嘉はいつも一緒にいて、よく郭嘉が芙綺の膝に寄りかかって、眠っているのを見かけたので、最初は母と子なのかと思ったことがある。


 共に容姿端麗で、芙綺の郭嘉への接し方がとても優しく、母親のように見えたからだ。


 それを尋ねると、芙綺は「まあ、奉孝ほうこうさまが私のお子だなんて。そんなことを言ったら、亡くなった奉孝様のお母上様に申し訳ありませんわ」とおかしそうに微笑って、郭嘉に同じことを尋ねると「芙綺さまは私が大好きでお慕いしてる方です。母じゃない」と少し頬を膨らませた。


 芙綺は実は、曹操の父の妾だったらしいが、妻に知られたことで、怒りから遠くにやられ哀れに思った曹操の父が、世話をして結婚をとりまとめたのだが、不運にもその夫が流行病で亡くなったので、以後は再婚はせず曹操の父が、当時は曹家でも問題児とされていた曹操を通じて庇護を続けていた女だった。


 彼女は曹父子には深く感謝をしていて、自分の存在が明らかになると曹家に迷惑がかかるため、人付き合いをほとんどせず臨水りんすいの山の畔にあるこの屋敷で、静かに暮らしていた。


 例によって郭嘉をここへ差し向けたのは曹操で、人目の付かない子供である郭嘉に時折芙綺の様子を見るように命じていたのだ。


 荀攸が助け出された時その身を心配したのは荀彧で、曹操に匿ってほしいと頼んだらしい。

 その頼みを聞いて、外界のことを一切気にせず静養出来る場所に荀攸を連れて行け、と董卓が討ち取られた混乱の最中、動けなかった曹操が郭嘉に命じたところ、彼が芙綺の屋敷を選んだのだという。


芙綺ふき様の屋敷ならば朝廷とも一切関わりなく、誰も荀攸殿が匿われてるなどと思わないでしょう」


 郭嘉かくかはそう自慢していたが、曹操は「あいつが単に、お前を口実に芙綺の屋敷に入り浸りたかっただけだ」と呆れていたので、多分そっちが本音なのだろう。


 当時の荀攸は全くそんな事情は聞かされず、

 その桃源郷のように美しい場所で、約一年過ごした。


 郭嘉はふらりと時折いなくなった。


 芙綺は常に屋敷にいて、

 政治や、血腥ちなまぐさいこと以外なら、彼女と色んな話をした。


 彼女は聡明で、詩も読めた。

 曹操の愛した女の一人だと思っているが、理由はよく分かった。

 有力な家の娘だった為、幼い頃からよく教育されたらしい。

 しかし朝廷の権力闘争の中で家はすでに没落し、父も死んで縁者も特に無いという。


 美しく、聡明で、穏やかな気性の非常に魅力的な女性だったが、

 荀攸は愛情より、彼女と話していると安堵を感じた。

 

 ここに来る前、地獄のような場所に囚われていたからだろうと思う。

 

 殺された人間達の、嘆きを聞き続けた。

 殺されなかった自分だけが生き残って、ここにいる。

 何も言わず、何も聞かず、側にいて穏やかに接してくれる芙綺に感謝をした。


 

 当時芙綺ふきよりも謎だったのは、むしろ郭嘉の方である。



 いなくなってどこにいるのかも分からないし、

 ふらりと消え、また気付いたら屋敷にいたりする。

 郭嘉も非凡で子供らしからぬ聡明さを持っていたが、それでもまだ十にもならない子供なのは分かった。


 しかし一人で馬を駆って、戻って来るのだ。

 芙綺に楽を習い、 

 屋敷の侍女達に、客人の世話の仕方を習い、

 何をやらせても非凡だった。

 平民の子供だとは思えなかったが、親はどうしているのだろう?

 荀攸には書や詩を習うことにしたらしく、どこから持って来たのか、その時は見当もつかなかった荀攸の書いた竹簡を持って来て、写したりしていた。

 

 一人で歩けるようになってから、いつも熱心に書いている竹簡を覗いてみたことがある。

 

 ……驚くほど、美しい字を、当時から書いた。


 荀彧も子供の頃からこういう字を書いていた。


 郭嘉の字を見た時、一体どういう家の子供なのかと初めて気になった。



『私の字は、まだ上手い人の真似です』



 字を誉めると、郭嘉がそう言った。


『……どうしてそう思うんだ?』


『字は見れば、書き写せますが、言葉の意味が私はまだ分からないことがたくさんあります。言葉は意味がちゃんと分かっていないと使いこなせません。

 だから荀攸殿。私に詩の意味を教えて下さい。言葉の意味を。

 他の人にも聞いてるけど、荀攸殿の使う言葉の意味も知りたい。

 貴方の字は見ててとても綺麗だから好きです』


 それから、郭嘉が屋敷にいる時は色々な詩を教えてやった。

 芙綺が時々それを見に来て、一緒に聞いていた。




『……あの子は一体何者です?』




 芙綺ふきは微笑んだだけで答えなかった。


 ある日目を覚ますと、いつものように一週間ほどいなかった郭嘉が戻って来ていて、屋敷には彼の部屋もきちんとあるのに、何故か荀攸の寝てる側で、小さな体を猫のように丸めて寝てる姿を見つけた。


 書が散らばっていたので、また何か持ってきたものについて荀攸が起きたら聞こうと思って、目覚めるのを待っているうちに眠ってしまったのだろう。


 郭嘉には時間感覚が欠落してるところがあって、

 夜に眠り、朝に目覚めるという習慣が全くない。

 平気で夜に発ったり、帰って来たりする。


 やれやれと思って、小さな体に起こさないよう布を掛けてやった時、何故か突然涙が溢れて来た。


 荀攸には妻も子供もいなかったが、

 何顒かぎょうの妻と子供は、目の前でなぶりり殺されたのだ。

 

 その頃の荀攸には芙綺ふきと、郭嘉の存在が心の支えで、彼らとこの美しい屋敷で暮らすことが、あの地獄のような場所の記憶を忘れさせてくれた。


 董卓とうたくの配下が事細かに語った、何顒かぎょうへの拷問を思い出し、

 この二人がそんなやり方で汚されたら、自分だって生きていられないだろうと思った。


 董卓を殺す。


 それは決して間違っていないことなのに、

 何顒はきっと、最後は董卓に逆らった自分を責めて死んだ。


 そのことが分かって、涙が溢れて止まらなくなった。


 声を押し殺して泣いたが、そのうち郭嘉が目を覚まして気付き「眠ってください」と荀攸の目を小さい手で押さえて、優しい声で言った。


「ずっとここにいますから、大丈夫です。公達こうたつどの」


 郭嘉の手を握りしめた。

 驚くほど、小さい手だった。

 それでもひどく温かくて、自分の子供の冷たい手を握りしめた時、何顒かぎょうがどんなに辛かったかを思い知った。


 子供の前で泣きたくなかったが、涙が止まらなくなった。

 郭嘉は荀攸の胸に顔を伏せて、手を握ったままずっとそこにいてくれた。



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