第5話


 それからしばらく、荀攸じゅんゆうはまた眠ったまま起きなかったらしい。


 ある時また目が覚めて、笛の音を聞いた。

 ここは、いつも美しい音が聞こえてくる。


 カタンと小さな音がしてそっちに目をやると、この前見た少年が竹簡に何かを書いている姿があった。

 荀攸が起きようとすると気付いて、筆を置き、立ち上がってこっちに歩いて来る。


「まだ一人じゃ歩けませんよ。足の具合が良くないんです。

 なにか必要なものがあったら言って下さい。

 私がなんでも持って来ます。

 水? 水がいりますか?」


 小さく頷くと、少年はまだ小さい子供の姿なのに、足場に乗って荀攸の上半身を引き上げて、その背に丸めた毛布を挟むと、上半身が少し起きれるようにしてくれた。

 それから向こうから水を汲んで持って来ると、荀攸の背を支えた。


「落ち着いて、ゆっくり飲んでください」


 言いながら、そっと椀を斜めにする。

 慎重に飲んだが、余程長い間何も口にしていなかったので、それでもせた。

 背を擦ってくれる。

 しばらくそうして落ち着くと、もう一度一口、飲んだ。

 今度は大丈夫だった。


「……ありがとう……」


 涸れていたが、ようやく微かに自分の声が出た。

 子供が嬉しそうに微笑んで、首を振る。



奉孝ほうこうさま……、お目覚めかしら?」



 別の柔らかな美しい声がして、陽射しを遮る薄い布の影から一人の女が現れた。


 荀攸じゅんゆうの声が出なかったのは、涸れたからではない。

 女のあまりに美しい容姿に、声を失ったのだ。

 貴人のような完璧に着飾った姿だが、優美で、はっきりした目鼻立ちをしていて、女というものをあまり重要視して生きてこなかった荀攸でさえ、こんな美しい女は初めて見る、と思うような女性だった。


荀公達じゅんこうたつさま。こんな場所で突然目を覚まされて驚きでしょうが、どうぞお許しくださいませ。私は芙綺ふきと申します。以後お見知りおきを」


芙綺ふき様はこの屋敷の女主人であられます」


 少年がどこか誇らしそうに言った。


「夫はすでに病で亡くなっていますので、どうぞお気になさらず静養なさってください」


「……何故……、私がここに……」


 こんな女性は荀攸は知らなかった。

 親切にされる理由が無く、戸惑ったのである。


荀攸じゅんゆう殿は立派なことをなさったからです」


 奉孝ほうこう、と呼ばれた少年の方が話した。


「あなたの行動を聞いて、ある方が牢を出た後、貴方が外界を気にされゆっくり静養出来ないようなことがあってはいけないと、それでここにお連れしました。

 確かに董卓は死にましたが、表の世界ではその混乱がまだ続いているのです」


「荀攸様のお体は弱っておられます。ここで心身を休めて下さい。

 十分動けるようになったら、こちらから呼ばずともお迎えが来るでしょう。

 ここは女ばかりですので不自由をお掛けするかもしれませんが……何かあれば奉孝さまにお伝え下さい。万事よくして下さいますので」


 いつの間にか女の側に移動した少年の髪を優しく撫でながら、彼女は言った。


 女の美貌も非凡だったが、少年も、まだ幼い子供なのに非常に整った容姿をしていて、豪奢な部屋の調度品や、抜けに見える庭の枝垂れた花の美しさに、ここは一体、地上のどこなのだろうと荀攸は分からなくなる。



「……私をここに、連れて来て下さった方は、……どなたですか……」



「いずれ分かることですから、今はいいでしょう。

 荀攸殿は色々と考えすぎだと思います。

 一つ何かを知ると、それについてあれもこれもとまたお考えになる。

 ですから知らせなければ、何も考えずゆっくり休めます。

 人は体を休める時は、頭も休めなければ駄目なんです」



「まぁ……奉孝ほうこうさま。お口が悪いですわよ」

芙綺ふき様は優しい方なので、こういうこと仰いませんから代わりに私が言いました」


 女が優しく窘めながら、二人は笑いながら庭へと出て行ってしまった。




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