第3話



 荀攸じゅんゆうは自分でかまどに火を付け、湯を沸かした。

 湯が沸くのを待つ間、庭に面した通路に出る。


 空を見上げると、白い息が上って行った。

 夜空には星が瞬いている。


 ……冬の星だ。


 そう思った時ふと荀攸はその部屋から離れて、歩いて行って、自分の執務室に向かった。


 荀攸は最近許都きょとに、長安ちょうあんから移って来た。

 洛陽の屋敷の執務室と全く変わらないよう、そのまま物を移したから、どこに何があるかは隅々まで把握している。


 この部屋だけは荀攸が自分で整えた。

 その他は全て妻がどこに何があるかを熟知しているが、執務室にだけは彼女は入ったことがない。

 荀攸がそうするなと言ったわけでは無く、彼女は結婚した時からそうだった。

 父親にそう、躾けられたらしい。

 

 執務室の更に奥、大陸各地の地図を集めた棚に一つ、小さな小箱がある。

 それを手に取って、机に向かった。

 座り、灯りも付けないまま箱を開くと、そこに一つの鏡が入っていた。

 明らかに女性が好みそうな、花の美しい装飾が彫られた見事な細工の鏡であり、もし妻がこれを見たら、さすがに自分を心から信頼してくれている彼女でも少しばかり「どこの方からの贈り物なのか」と驚くような代物だろうと思う。

 

 細工の面を裏返すと、傷一つ無い銅面に、自分の顔が映る。


 とはいえこれは無論のこと、荀攸がこうして自分の顔を覗くためのものではなかった。

 鏡を手にしたまま立ち上がると、窓辺に行き、そっと外に鏡を出した。

 

 美しい星々が、映り込む。


 毎日同じ時刻に同じ場所で星を覗き込むと、

 星が動き、

 季節が巡っていることを実感出来る。

 

 

 董卓とうたくの天下が終わり、

 曹操そうそうの治世がやって来た。

 やがてそれも過ぎ去り、

 曹丕そうひが玉座に座ることになる。



 …………あの董卓という怪物は、何だったのだろうかと思う。



 かん王朝の権威を破壊し尽くした。

 触れることの出来なかった帝という聖域に触れ、

 蹂躙し、

 その蹂躙された大地が、

 曹魏の治世の土台として埋まっている。


 今は平穏を取り戻した洛陽、長安。


 あの雅やかな宮殿の下に、どのくらいの血が流れ染みこんでいるのか。




 董卓とは、言葉通り再会した。

 

 あの男は、人の顔と名を覚えるのが得意で、

 二度目に再会した時も、はっきりと「久しぶりだな、荀公達じゅんこうたつ殿」と笑顔で話しかけて来た。

 その時にはすでに董卓は洛陽の帝の側にいて、

 宮殿を征服し、何もかも好き放題にし、専横極まっていた。


 帝を脅して高い地位を手に入れて、遥かに荀攸を見下ろす立場になっていたのに、偶然近くを通り掛かった時、向こうからやって来て話しかけてきたのだ。

 少し驚き、慌てて目上の者に対しての所作をしようとすると、そんなことはしなくていいと気さくに笑いかけ、荀攸を立ち上がらせた。


「貴方も洛陽らくように来て下さったとは、心強い」


 ゆっくり話でもしたいのだが、思いがけず多忙になってしまってなどと笑って、その時は別れたが、荀攸が董仲穎とうちゅうえいを必ず殺さなければならないと思ったのはこの時だった。


 悪事を働きながら、以前と同じように笑えるあの男を見た時に、

 誰かが奴を殺さねば、大変なことになると思った。


 暗殺計画が露見した時、荀攸じゅんゆうは捕らえられ投獄された。

 危険は承知だったため牢に連行された時、何かが驚きで、悲嘆に暮れたわけではなかった。

 ただ一つ救いだったのは董卓とうたくの邪悪さが、誰が見ても分かる類いのものだったことである。だから例え自分達が捕らえられても、必ず誰かがまた董卓の命を狙うことは分かっていた。


 逆にかん王室の忠臣を名乗りながら董卓などに膝をつき、従ってる方がおかしいのだから、逆らい投獄された自分の身を荀攸は決して後悔などせず、誇り、肯定出来た。


 董卓の暗殺を企てた者には、無論死刑しか与えられない。

 決まり切ったことだったから荀攸は尋問でも、何も喋らなかった。

 鞭や棒で打たれても話さなければいい。

 投獄されたあとは、董卓の手の者しかいない牢に入れられて尋問されていたので、外界のことが一切分からなくなった。

 

 しかしそれまでのことで、董卓が自分に逆らう人間をどのように死に至らしめていたのかは人づてに聞いていたので、いずれにせよ楽な死は与えられないことは分かっていた。


 もはや命はこの手から離れて、敵の手に委ねられている。

 体が耐えきれなくなったら気力で逆らっても人間は死ぬし、

 気力が失われたら、自ら死を願うだけだ。


 不思議なことに荀攸は、

 投獄された時に初めて、自分が荀家という一族に関わる恩恵を感じた。

 荀家は他の人間も朝廷の重役に就いていたが、一人一人はかなり独立して、それぞれに任官場所も異なった。

 董卓に近いところに荀爽がいたが、別に荀攸じゅんゆうにとって余程の近親ではなく、普段から頻繁に会っているというわけでも無かった。

 荀攸は董卓とうたく暗殺に関しても、何かその時具体的なことが決まっていたわけでは無く、本当に欲しい情報を持っていなかったことも大きかった。

 

 何か重大な情報を荀攸が持っているならば、彼自身それを守らなければという危惧があったが「董卓殿の暗殺を企んだであろう!」などと声を荒げられても「董卓は帝を蔑ろにし都に混乱を招き、民の平穏を乱しているから殺しを企てた」とはっきり言えば、尋問係も怒りにまかせて暴行を加えることしか出来なかったのである。


 まだ妻帯もしていなかった。

 許嫁すらおらず、

 当然子もなく、

 荀家という枠組みの中で多くの人間と共に生きていたが、ある意味で荀攸は董卓の獲物としては物足りなかったのだと思う。


 董卓は、牢の見張りには尋問の手順を詳しく命令していた。

 妻や許嫁や娘がいれば面会に来させた所を見張りの兵達が犯しながら尋問に答えさせてさせていたし、男の子供の場合どんな息子であるかを聞き出して、それに応じた拷問を行わせた。


 気が弱いならば暴力を振るったし、

 見目が評判なら顔を傷つけたり焼いたりした。

 書が上手ければ指を折り、

 威風が見事だと誉められる息子なら、男でも裸に剥き、辱めたりしていた。


『董卓様は実に料理が上手い』


 尋問係のそういう言葉を、よく覚えている。

 

 荀攸じゅんゆうの尋問はあまり捗らず、数日放っておかれることすらあった。

 その間も次々と牢に人は送り込まれていたし、

 荀攸が何か荀家であることを特別に計らわれたというよりは、他に董卓や拷問係を喜ばせる獲物がありすぎて、ほっとかれたという表現の方が正しかっただろう。


 荀攸はそういう時、牢の壁に背を預け、ただ目を閉じ蹲っていた。


 目を閉じると、音だけが聞こえて来た。


 怒声や、懇願の声。

 女や子供の喘ぎ声や泣き叫び、

 囃し立て、嘲笑する、人間の邪悪な感情しかそこにはなかった。


 ある日、目を覚ますと同じように投獄されていた何顒かぎょうが牢で自殺し、死んだということが端的に書かれた紙だけが置いてあった。


 何顒かぎょうは強く、明るい人間だったので、それは荀攸には少し衝撃だった。


「何顒が何をされたか聞きたいか?」


 紙を静かに見下ろしていた荀攸に、外から兵が嗤いながら声を掛けた。

 何も答えなかったのだが、荀攸が苦しむだろうと思い、兵は全てを細かく聞かせた。


 

 ……一瞬でも、あの強い男が何故自分より早く死んだのか、などと思ったことを荀攸は恥じた。


 自分より、遥かに凄まじい拷問を与えられて死んだ。

 それが分かった時に、

 初めて董卓とうたくに出会った時、

 自分は奴の、手に触れられるほど近くにいたのに、

 

 あの時殺せなかったことを、悔やんだ。


 あの時はまだ、董卓は牙を見せていなかった。

 だからそんなことは不可能に決まっていて、都合良く殺しておけば良かったと思ってるだけなのに、その気持ちを捨てられなかった。


 自分があの時董卓を酔いに任せてでも斬り殺しておけば。

 何顒かぎょうと、その妻子は死なずに済んだ。


 弱いから死ぬんだ、と兵が言った。


(違う)


 強く明るい男だった。

 父であり、夫であり、人であるならば、

 誰にとっても耐えがたい痛みを、与えられただけだ。



 荀攸じゅんゆうが声を上げて泣き崩れると、兵達が牢の外から大笑いをしていた。


 それからは、荀攸は何もしなくなった。

 時折暴行を受けたが、何も言わなかったので兵達も飽きて、そのうちどこかへ行った。

 食事も取らなくなり、 

 そのうち意識が眠っていることの方が多くなった。


 恐らく数ヶ月、そういう状況になっていたのだと思う。



 ある時から、周囲から音が消えた。



 拷問の音も、声も、無くなっていたように思うが、記憶ははっきりしない。

 

 後に照らし合わせると、あの時期に王允おういんが董卓を殺したため、

 長安ちょうあんの王宮は混乱のあまり、

 牢に収監した者達になど構ってる暇は無かったのだ。



 静寂しか無かった。



 人の気配がなかった。


 つまり牢は満ちていたのに、

 あの時あそこには、自分しか生きている者がいなかったのだ。



 あの時の静かな世界を思い出すと、今でも荀攸は背筋が凍り付く。



 死に囲まれていた。


 

 ……そこまで来ていたのだ。



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