第31話

 四十年も生きていれば、驚くことなら幾らでも経験する。

 真逆こんなことが。そんなことが幾つもあった。


 格上の侯爵家令息から婚約を持ち掛けられたり、乞われて令息の妻になったり。


 最愛と言われていたのが、そうでなかったことを知ったり、妾と長く付き合ったり。


 そんなことに出会う度に、ヒルデガルドは現実とは小説よりも奇なりとは、本当のことだと思ってきた。


 だが、流石にこんなことってあるだろうか。


「君とは、同じ学年だね。ヒルデガルド嬢」


 目の前にクリスフォードがいる。

 初めて会ったあの時の、記憶のままのクリスフォードその人だ。


 プラチナともゴールドともつかない白金の髪が、見た目よりも硬質なのを知っている。さらりと直毛なのに寝癖になりやすくて、起き抜けに必ず何処かが跳ねていた。


 色んなことを呑み込んで、色んなことを諦めて、そうしてヒルデガルドは目の前の嘗ての夫を追うように、前の生を閉じたのである。


 ここは伯爵家の貴賓室で、今はクリスフォードと向き合っている。 

 今世では伯爵家とクリスフォードの侯爵家とは関わりがないと思っていた。


 部屋の中には両親と、ローレンも一緒にいる。クリスフォードの隣には、よく見知った顔の男性が座っていた。


 アーサー?

 ヒルデガルドは懐かしい彼の、若い頃を思い出した。

 侯爵家の執事、アーサーだ。だが、直ぐに彼ではないと気がついた。アーサーによく似ているがアーサーではない。あの頃のアーサーよりもずっと若い。


 死に戻る前の人生でアーサーに初めて会ったのは、クリスフォードと婚約して直ぐのことだった。 


 当時の彼は執事見習いで、記憶の通りなら三十半ばの頃だった。

 目の前の男性は、どう見ても二十代である。


「こちらのご子息が教師をお探しと聞きました。それも、天文学に長けた人材をと聞き及んで、彼ならどうかと思いまして」


 クリスフォードは、父がローレンの教師を探しているのをどこからか聞きつけたらしい。

 飄々として見えて、クリスフォードとはそういう目敏い人物だった。


 クリスフォードは、侯爵夫妻に遅く生まれた嫡男だった。長く子に恵まれず、後継を他所から探そうとした時に漸く授かった長子である。クリスフォードの誕生が呼び水となって、二年後には次男が生まれている。


 その侯爵夫妻は、確か今の頃なら領地にいる筈だ。夫妻には健康上の問題があり、空気の良い領地で過ごすほうが多かった。

 前世では、ヒルデガルドとの婚姻を見届けて、安堵したのか数年のうちに相次いで他界している。


 クリスフォードは学生の頃から、領地にいる両親に代わって、アーサーとその父である執事、一番長生きをした家令と一緒に執務にあたっていた。


 侯爵家に優れた事務官が多いのは、若年のクリスフォードを支えるために、早いうちから事務方の使用人を選りすぐって雇い入れていたからだろう。


「ロングフォール侯爵ご令息、お気遣いは大変有難いのですが、侯爵閣下はご存知なので?」

「勿論ですよ、伯爵。彼は、当家の執事の息子です。使用人の差配は、私には勝手にできませんから。ああ、彼はヴィンセントと言います」


 父の問い掛けにクリスフォードが答えた。


 道理で似ている筈だ。アーサーと面立ちがそっくりである。

 ヴィンセントは、クリスフォードに紹介されて頭を下げた。それから名と年齢を述べた。アーサーの弟ヴィンセントは二十五歳で、アーサーとは十も年が離れていた。


 記憶を辿ると、そうだ、そんな弟がいるとアーサーから聞いたことがあると思い出す。

 だが、記憶の彼はこの国にいなかった。彼は帝国の大学に学んで、その後も研究職に就いたまま、それきり母国には戻ってこなかった筈である。


 そのヴィンセントが、なぜここにいるのだろう。


「優れた人材をお探しだと伺いました。その分野で学者を探すのは、この国では難しいでしょう。天文学の先進国は帝国ですから」


 クリスフォードは父とローレンを交互に見つめて話をする。なのに、ふとした瞬間にヒルデガルドと視線が合う。


 それはきっと、こちらが彼を見つめているからだと、ヒルデガルドはそこで目を伏せた。


「確かに、当家では学者を探しておりましたが、王都近郊からで構わないと考えておりました。貴方の仰る通り、名のある学者は少ないでしょう。だが、皆無というわけではない」


「伯爵。ここはこちらに甘えて頂きたいのです。ご令息は私の弟と同じ年です。お身体を労りながらお暮らしであるそのお気持ちも理解できる。私の両親もそうですから。それに、」


 そう言って、クリスフォードはヒルデガルドを見た。その視線を感じて、ヒルデガルドは思わず俯いていた顔を上げてしまった。


「ヒルデガルド嬢へお送りした釣書は、二度とも弟君おとうとぎみの健康を理由に断られた」


「え?」


「いや、その節は誠にご無礼をいたしました。仰る通りです。我が伯爵家は、嫡男の健康を理由に後継を差し替えたばかりです。貴方からの娘への申し込みは、丁度、その頃にいただいたものです。ご希望に添うお返事をする訳にはいかなかったのだと、そうご理解願いたい」


 父の言葉がヒルデガルドの耳をすり抜ける。クリスフォードが婚約の申し込みを?


 今世で、ヒルデガルドは自身への釣書には目を通していない。それで、父に幾度も声を掛けられていた。


 父は他の家のように、ヒルデガルドの意思を無視して婚約を結ぶことはないとわかっていたから、今世で他家に嫁ぐことを望まなかったヒルデガルドは、釣書の相手を確かめなかった。


 侯爵家が今世でも、ヒルデガルドに縁談を持ち掛けていたとは。


「お父様⋯⋯」


 父を見たヒルデガルドに、父は眉を下げた。


『得難いえにしだと思うぞ?』


 確かに父はそう言っていた。

 あの時の縁が、真逆、侯爵家からのものだったなんて。


 驚くヒルデガルドをどう思ったのか、クリスフォードは鷹揚な笑みを浮かべて続けた。


「ご令嬢とはこれから、王国を支える貴族の当主としてお付き合いすることになるでしょう。一度は望んだ縁です。お役に立てればと思ったのです。ヴィンセントは優秀です。帝国大学で天文学を学んだ後に、大学に残り研究職に就いておりました」


 どこまでも過去の記憶をなぞるような事実。どこまでも過去がヒルデガルドを追ってくる。


「今回、我が侯爵家で、彼を支援することにしたのです。彼の知見を本国で活かしてほしいと思いましてね。後々は、王子殿下の教師に推挙したい。その前に、ご子息へ教えを授けて実績をつけたい」


 クリスフォードの青い瞳が、父をローレンを、それからヒルデガルドを見つめた。


「良い取引でしょう」


 クリスフォードは軽やかな笑みを見せた。ヒルデガルドのよく知る、若き頃のクリスフォードの笑顔だった。





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