第32話

「なぜ、それほどのご厚情を?」


 クリスフォードの言葉に、父は慎重に言葉を返した。


 クリスフォードは成人に達したばかりの青年である。なのに伯爵家当主の父と渡りあうような会話をしている。


 それこそが、ヒルデガルドの知るクリスフォードの姿であった。

 過去世でも、ヘレンのことを抜きにすれば、クリスフォードは良き家庭人だった。

 まるで妾などいないような顔で、ヒルデガルドと接していたし、養子に得たオースティンのことも可愛がってくれた。


 だが彼は、生き馬の目を抜く貴族社会を抜かりなく生きる大貴族の当主だった。


 今、父が慎重になるのも、そんなクリスフォードの秘めた内面に気づいているからだろう。


 父の問い掛けに、クリスフォードは少しの間、考えを纏めるような素振りを見せた。


「なぜでしょうか。ご令嬢のことを他人とは思えなかった、そんな曖昧なことでは理由にならないでしょうか」


 ああ、それは。

 ヒルデガルドは目眩が起こるような感覚に陥る。その言葉、それは嘗て、前の生でヒルデガルドに婚約を申し込んだクリスフォードが言った言葉と同じだった。


『なんでかな、君とは他人とは思えなかったんだ。そんな理由では駄目?』


 婚約が結ばれて直ぐに、ヒルデガルドは尋ねたのである。どうして婚約者に選んでくれたのかと。


『選んでもらったのは、私のほうだよ。君に選んでもらわなければ、きっと生涯独り身を通したんじゃないかな』


 数年後に呆気なくヘレンを得たとは思えない、なんとも適当な物言いだったと後からわかるのだが、若かったヒルデガルドには、その言葉だけで十分だった。

 それでクリスフォードただ一人を愛したのだから。


 目眩は一瞬のことで、ヒルデガルドは過去の回想から現実に戻った。

 今はローレンのことを第一に考える場であると、動揺を押しとどめる。


「ローレン。お前はどうしたい」


 父は、ヒルデガルドに絡めるようなクリスフォードの言葉を不可解に思うようであったが、先ずはとローレンに確かめた。


「ヴィンセント先生がよろしければ、僕はご教授頂きたいと思います」


 ヴィンセントはローレンの言葉に、笑みを浮かべて頷いた。その目元がアーサーとそっくりで、ヒルデガルドはつい懐かしくなってしまった。


 アーサーはきっと今頃、クリスフォードとヒルデガルドを同時に失った侯爵家を、オースティンを支えながら盛り立ててくれているだろう。


 前世と今世、二つの時間を思考が行き来するうちに、ヒルデガルドはどちらの時間軸にも属するような、不思議な感覚に囚われた。




 授業が始まってみれば、意外にもヴィンセントとローレンは気が合うようだった。


「どう?ローレン。疲れない?」


 人と接することの少ないローレンが、遠慮や無理をしているのではないかと尋ねれば、ローレンは喜色を浮かべて答えた。


「凄く楽しいんだ、姉上。先生は天文学のほかにも算術にも詳しいし、化学ばけがくのことも沢山知っているんだ。大学って凄いな。僕も通ってみたい」


 まだ貴族学園にも入学していないローレンの言葉に、ヒルデガルドは前世の彼を思い出した。

 ローレンは、学園には三年間頑張って通った。たとえ毎時間を教室で過ごせなくても、たとえ終日保健室で過ごす日があっても、彼は学生生活を精一杯学んで過ごした。


 卒業後は父から執務を習い、内務を主に請け負って、父の期待に応えて、二十三になった年に当主となった。そしてその翌年に亡くなっている。


 父と母の落胆は、まるでローレンに後継を譲ったことを責めるように、後悔ばかりにまみれたものだった。


 無理に後継など任せなければ、初めからアトレイに頼めたなら、或いはローレンは一年でも、一日でも長く生きられたのかと、父の晩年は後悔の繰り返しだったと思う。



「もしかしたら今世では、ローレンの負担は軽くなるのではないかしら」


 自室に一人でいても、ヒルデガルドの独り言は健在である。


「もしかしたら今世では、ローレンは大学へ通う道も選べるのではないかしら」


 後継の重圧に耐えながら、二十四歳まで生きたローレンの前世。同じ寿命を授かっているのだとしたら、今世ではローレンにも新しい道が開けるのではないかと思う。


 その時に、ヴィンセントはきっとローレンの道標になってくれるだろう。

 それは結局この生でも、クリスフォードとの縁が続いていることを意味するように思えた。



「ローレンの教師が決まった?」

「ええ。ローレンはとても喜んでいるわ。どんなことでもあの子の励みになるなら、それで良かったと思えるの」


 アトレイにヴィンセントのことを話せば、聡い彼は直ぐに気がついた。


「なぜ、侯爵家が出てきたんだ」

「⋯⋯私に、縁談を持ち掛けていたそうなの」

「君に?君、それを知ってたの?」


 アトレイの問い掛けに首を振って答えれば、アトレイは更に尋ねてきた。


「君が縁談を受けた相手からローレンの教師を紹介されたってこと?」

「そうなるわね」

「伯爵は、それを受けたんだね」

「ええ。彼とは家族全員で会ったわ」

「彼?」


 アトレイは、ヒルデガルドの縁談に警戒するようだった。


「ロングフォール侯爵家の嫡男よ」

「君、そんな家から縁談を受けていたの?」

「そうみたい。知らなかったけれど」

「知らなかった?」


 ヒルデガルドの答えに、アトレイは眉をひそめた。


「ええ。私、嫁ぐ気がなかったから。ローレンと代わってこの家を継ごうと、そう思ったから釣書は全く見てなかったの」


 アトレイは、その言葉に溜息をついた。


「君の気持ち次第では、私はソイツに君を奪われていたかも知れないんだな」

「アトレイ?」

「ソイツ、まだ君に関わるのか?」

「ソイツって⋯⋯」

「クリスフォードだろう」

「彼を知ってるの?アトレイ」


 アトレイは本来、無闇に人の好き嫌いを口にしない。だが、今ははっきりわかるほど不快感を露わにしている。


「あんな切れ者、知らないわけがないだろう。出来れば関わりたくもないね」


 けれど、とアトレイは続けた。


「けれど、君に手出しするのなら、そうも言っていられないかな。ローレンが関わるなら尚のことだ。君、アイツに何か言われたら、絶対必ず私に言うんだぞ」


 アイツだソイツだと、クリスフォードに対して好戦的なアトレイを、ヒルデガルドはどうしたものかと考えた。






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