第30話

「ア、アトレイ⋯⋯」


 当然ながら今のアトレイは、クリスフォードがヒルデガルドの死に戻る前の夫であることを知らない。

 同じ学園に通う侯爵家の令息、そのくらいの認識だろう。


 ヒルデガルドにしても、前の生なら今頃は、既にクリスフォードと婚約していた。

 この夜会にもクリスフォードと出席していた。


 なにも知らないアトレイが、給仕のほうへ歩き出す。


「アトレイ、」

「喉が渇いたろう?飲み物をもらってくるよ。シャンパンで良い?それとも果実水?」


 アトレイは笑みを浮かべてヒルデガルドに尋ねた。その肩の向こうに給仕が見えて、側にクリスフォードがいるのがわかった。


 待って、と言いかけて、ヒルデガルドは思い留まった。


 なぜ、躊躇ためらう必要があるのだろう。クリスフォードと結婚したのは前の生でのことである。


 前を向いて歩き出したアトレイに、ヒルデガルドは勇気を出した。

 アトレイと生きていく。そう決めたのは衝動でも、アトレイに押し切られたからでもなくて、アトレイに寄せる信頼があるからだ。


 それは前の生で積み重ねた記憶のためもあるが、死に戻ってからの日々に、アトレイは色濃く影響を与えていた。


 ヒルデガルドは、急ぎアトレイの腕に手を添えた。アトレイはそれに、ちょっと驚いた顔をした。だがヒルデガルドの思わぬ行動に破顔した。それもまた、アトレイには珍しいことだった。


 アトレイが、ヒルデガルドの添えた手に自分の手を重ねる。まるで添えられた手が離れてしまうのではと心配するように、ヒルデガルドの小さく手をそっと包みこんだ。


「一緒に行こう」


 飲み物を取りに行くだけなのに、アトレイはまるで旅にでも出かけるようなこと言って、給仕のほうへ歩いた。


 給仕の姿と同時に、側にいるクリスフォードが近くなる。今の生ではクリスフォードとは面識はない。


 そう思うのに、胸は小さな鼓動を繰り返し、ヒルデガルドは思わずアトレイの腕に掛けた手に力を込めた。


「なにがいい?」

「シャンパンを」

「アルコール、大丈夫?」


 いつも夜会では、大抵貴方とテラスでシャンパンを飲んだのよ。


 それはもう遠い過去の思い出に感じられた。なにも知らないアトレイが、ヒルデガルドがアルコールを選んだことを心配するのを可笑しく思った。

 前のアトレイは、ヒルデガルドが酒に強いことを知っている。


 給仕からシャンパンを受け取ると、アトレイはそれをヒルデガルドに手渡して、それから自分も同じようにシャンパンを受け取った。


「乾杯」


 何にとは言わずに、アトレイがグラスを少し持ち上げて、琥珀色のシャンパンとアトレイの瞳が重なって見えた。


 シャンパンゴールドは夫の色だった。今世でも、やはりシャンパンゴールドはアトレイの色なのだ。


 ただの偶然のことなのに、神様はこんなチョイスをするのだと思った。


 ヒルデガルドもグラスを持ち上げ、思い切って言ってみた。それは、自分自身に贈る言葉にも思えた。


「貴方との未来に、乾杯」


 アトレイは、息を詰めてこちらを見ていた。


「アトレイ?」

「⋯⋯い、いや、⋯⋯」


 アトレイはそれからふと横を見て、小さく息を吐いた。だが直ぐにいつものアトレイに戻って、


「君との未来に」


 そう言って、シャンパンを口に含んだ。


 その様子が、クリスフォードの目に映るだろうとは思わなかった。

 この生では、彼は通行人と同じである。偶々たまたま、同じ学園で見たことのある二人を見かけた。それだけのことなのである。

 言葉を交わしたこともなく、当たり前だが、名乗ったこともない。


 その夜は、舞踏会は何事もなく終わった。




「姉上、どうだった?」


 舞踏会から戻ると、ローレンはまだ起きていた。


「眠れなかったの?」


 舞踏会の装いを解いて寝間着に着替えてから、同じ並びにある角部屋を訪ねれば、やはりローレンは、寝台に横たわったまま眠らず起きていた。


「うん。アトレイの気持ちが通じたからね」


 思えば、ローレンが背中を押してくれなければ、今宵アトレイとは、仲の良い従兄弟で終わっていたのだろう。


 前世でそこそこ経験を重ねて、短くはない時間を生きてきて思うのは、人生にはこんなことがままある、ということか。


 あの時のあの出来事がなかったら、あの時のほんの僅かな心の変化がなかったら、その先の未来は大きく違っていただろう。そういうことが、時折起こる。


 それを言うなら、クリスフォードの葬儀の夜、あのまま疲れに身を任せてなにも考えず眠っていたなら、多分、朝がきて目覚めたのは慣れ親しんだ夫人の部屋の寝台だったのだろう。


 こうしてローレンに再び会えることなんて、夢の中でしか叶わなかった。

 女当主となって、アトレイを夫に得る選択もあり得なかった。


「夢なのかしら」

「姉上?」

「貴方の夢を叶えるためなら、なんだってするわ。私だけじゃない、アトレイも力を貸してくれる」

「姉上⋯⋯」


 ローレンの手を握る。夏なのに、ひやりと冷たいローレンの手。だが、その手はあの臨終の時のように骨ばっていない。


 今なら間に合う。


「お父様が、学者先生を探しているわ。貴方にご教授くださるお方を」


 ローレンが、一つでも多く夢を叶えて、一日に一度でも楽しいことと出会う。それがヒルデガルドが願うことだ。


 クリスフォードの死も早かった。結局、ヒルデガルドも三日遅れで死んでしまったけれど。


「人生は何度でも繰り返されるものだとしても、一つの生は一度きりだわ。貴方も私も最期の日に、満足だと思えるような生き方をしたいわね」


 ヒルデガルドは、そこでたまらずローレンの胸元に耳を押し当てた。


 とくんとくんと鼓動が聞こえる。力強い響きに涙が滲む。


「ローレン、大好きよ」


 ローレンは、デヴュタントを迎えるというのに弟に抱きついている姉の頭を、そっと撫でてくれた。




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